●家も木も生きている?「健康な家」などと言うと不思議に思う人も居るかもいれません。
「家は物体ではないか」がその怪訝な表情の奥にあるからでしょうか。
ましてや、「健康な家が、健康を育てる」などと言うと、もっとおかしく思われるかもしれません。
一般的には、家が健康を育てるというよりも、その家の住環境が健康を育てるというのならばわかるということかもしれません。
物質は物質でしかないというのが近代科学の考え方にあります。
ニュートン、デカルト以来の近代科学は、物心二元論をとり、こころや精神の問題を科学から切り離し、科学は神の領域に立ち入らないということで、教会の魔女狩りから逃れ、近代科学の枠組みをつくりました。
そして、実在を検証できて数値的に示せるもの、再現性のあるもののみを研究の対象とし、それ以外は、無もしくは偶然との位置づけで研究を拒否してきました。
ですから、超ミクロや超マクロは無でしたし、数値的に確認できないものや科学で証明できない奇跡のような不思議現象は無視されてきたのです。
ニュートン自身が物心二元論者であったのではなく、物心一元論を認めていたようですが、その時代での生き残りのために二元論をとったということが真相だと言われています。
ところが、それ以降の科学は、かたくなに物心二元論をとり続け、それが正しいという前提での見方・考え方で塗り固められてきました。
戦後の日本を支配した西洋合理主義の科学観こそがニュートン以来の物心二元論であり、「科学的であること」が何よりも真理に近いものであるかのように思考改造させられたのです。
およそ科学的でないものは、認められないで排斥されるか否定されるかしたのです。
科学的であるかどうかを判断基準とするように洗脳された思考回路が、視野をどんどん狭くしてしまっているために、理解できないことや、認めたくないことが増えてくると混乱してしまうのが今の時代です。
ニューサイエンスの量子力学に始まる超微粒子や無の世界の研究は、物質と心が根源的には一体のものであることに到達し、科学と宗教の同根性を説くようになっていますこころの研究もすすみはじめました。
これまで奇跡であったような現象の解明もすすんでいます。
本誌第14号特集で「人間らしさとは何だろう」を取りあげ、肉体という衣をまとった物質と本質生命体との2重構造で、こころは本質生命体に宿っていることを書きました。
物質にも宿る本質生命体ここで、もう少し理解を広げなければならないことは、本質生命体と2重構造になっているのは人間だけではないということです。
地球上の生きとし生けるすべてのものは、物体と本質生命体との2重構造になっているとサイ科学の研究者や本質生命体=心・魂の研究者は言っています。
輪廻転生の研究者は生物のみならず、鉱物にも本質生命体が宿っていて、すべての本質生命体は、それぞれの物体の生涯を通してスタディして成長し、次の物体へと移っていくと言っています。
近代科学の批判から横道に外れましたが、家にも本質生命体が宿っていると考えてもよさそうです。
少なくとも材料には本質生命体が宿っていると考えてもよいようです。
その中でも、呼吸する素材は生きていると考えることができるでしょう。
切られて木材として使われている木ですが、本誌では、「木は生きている」と表現しています。
単純な生物学で言えば、切られた木の生命は、その時点で終わると言われるかもしれませんが、それでも木が生きていると言うのは2つの面からです。
ひとつは、呼吸しているからです。
「あれは温湿度の吸排出で、呼吸ではない」などと野暮なことを言わず、それを呼吸と認めればいいのではないでしょうか。
物質を物質のみに固定するのではなく、生きて呼吸していると捉えると、木の役割が一段とよくわかりますし、ストーリーを語れ、夢を語れることになります。
もうひとつ生きていると言うのは、呼吸している間は、本質生命体が宿っていると考えることができるからです。
これは、木だけでなく、土や草類にも言えることですし、石にだって言えることです少なくとも、呼吸する植物系の素材である土や紙類などは生きていると言って差しつかえないと考えています。
少々遠回りをしましたが、家と家を構成している素材との関係で、家も生きていると考えることができます。
生きているから健康を育てることができるのです。
自らが呼吸し、生きている家と素材でこそ健康を育てることができることになります
●家が健康であるということは?ここから改めて健康を育てる家について考えます。
健康を育てる家の最大の条件は、家そのものが健康に生きていることです。
前述の論で言えば、どんな家であっても生きているということができるのですが、問題なのは、健康に生きているかどうかです。
家が健康に生きているためには、まず、家自体が呼吸できる状態にあり、自然のエネルギーを受け入れ、通すことができるかどうかにあります。
外壁は自然に直接触れているのですが、自然のエネルギーを反射したり拒絶したりするような人工的に加工された無機質材では、呼吸しているとは言えないことになります土壁や木板は植物性の素材で呼吸する材料ですから、温湿度の吸排出を行いますし、自然のエネルギーを取り入れられる健康素材ということができるのです。
基礎・床下もベタ基礎で布基礎にしてしまうと風が通らなくなってしまいます。
陽の射すことのない床下だけに、建築基準法通りにすれば、小さな通風口などでは、外気が通り抜け切れず、湿気を取り去ることはできません。
家の健康をつくる最大のカギこそが床下にあります。
床下の通気の乏しい家ほど不健康な家となるのですから、きちんと通気口を設けるだけでなく、布基礎と土台柱の間の通気を確保することでこそ健康な家をつくることになります。
いわゆるパッキンですが、10年もすればヘタるような樹脂や金属は、完成時の自己満足に終わるもので、生涯の健康な家をつくったことにはならないのです。
百年経っても形状を保つことが実証されているステンレス製などで、健康な家をつくることが必要でしょう。
家の内外を結ぶ開口部も問題になります。
昔からの日本の家は、内と外とが一体となったつくりで、戸を開け放って外とつながり、自然を愛でる風流が根底にありました。
縁側からさらに濡れ縁というのは、むしろ、より自然に近づこうとする心の現れでしたから、可能な限り開口部をとっています。
開口部などというより、開けっぴろげと言った方が正確かもしれません。
境を気にしない暮らしと暮らし方があったのです。
それだけに、パネル化した大壁構法は、室内の気密性を重視することになります。
この点は特集Ⅰで触れていますので重複を避けますが、ここには、積極的に外からの風や香りや明かりを取り入れるという思想はありません。
窓を開放すれば同じだと言う人もいますが、窓と雨戸・障子などは根本的に違う性格ですから、気密性を高めるほど家自体の健康が妨げられることになります。
24時間換気などは、住む人に快適そうに感じさせるためだけで、家にとっては快適でも健康でもないものです。
関連して言えることが家中の通気です。
日本の家には風の通り道があるのが一般的です。
風に向かって開口部を設け、家の中を通ってほぼ反対側から風が抜けるように考えられてきました。
家の中の湿気やホコリを風に掃き出してもらい、自然のエネルギーを家の中に満たしてもらうためでした。
明かり取りにしても同じようなことが考慮されていました。
これに対して、洋風住宅は、大壁で仕切ることと、個人主義概念を固定させるための個室化がつくりの基本にありますから、気密の箱の寄せ集めになりかねないところがあります。
窓を開けても、その部屋だけで行き止まりで、風には通り道がありません。
風の通れない家で、人工的な明かりに頼っていては、健康な家にはなれないことになります。
家を健康にするためのもうひとつの先人の知恵は天井と屋根にあります。
日本の家の歴史を見ると、書院造りから天井貼りが見られるようになります。
(本誌第17号特集Ⅰ「木の家づくりの歴史に学ぶ」参照)しかし、天井は、いくつもの部屋の不規則になる構造材や高さが変化する屋根を感じさせないようにするためでしたから、書院造りに見られるもので、江戸時代までも、書院風の流れを汲む建物を主にして天井が貼られています。
民家などでは、客間や寝室などの限られた部屋に天井が貼られていますが、囲炉裏のある居間など、日常生活の場には天井がないのが普通で、現しの木組みを見ることができます。
これは、家中の風の通りと夏の暑さを逃がす役割をしていたと考えられます。
冬の寒さには暖をとる必要がありましたが、現代人ほど脆弱ではなかったようで、ある程度の寒さには耐える暮らし方をしていました。
屋根の形はいくつもありましたが、日本の家は石器時代から切妻造りに代表される三角を基本にしていました。
その屋根をイネ科の多年草や稲ワラなどで葺いて、吸湿や保温、断熱、通気性を保つように考えられていました。
木の家こそ健康な家以上のように、家そのものが健康であるには何が大切かについて考えると、その答えはすべて日本らしい木の家づくりに生かされていたことがわかります。
先人たちは、長生きする健康な家にするには何が大切かを十分に承知していたと考えられます。
それが随所に生かされて日本の家の伝統が継承されてきたと言えます。
健康を育てる健康な家は、自然のエネルギーを存分に生かし、自然と共生した呼吸する家であることが基本です。
自然と対峙する人工的な装いや人工的エネルギーでは、本当の健康を育てることはできないのです。