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山を育て木の家をつくる
木は切ってはいけないのか、切るべきなのか
●森林破壊をすすめた20世紀 根こそぎ山を掘り崩したり、皆伐したり、焼き尽くしたり、森林を破壊することは人類にとって自殺行為であり、他の生物たちの生存を絶つことを意味しています。
中央アジアやアフリカなどに広がる砂漠地帯も、もとは豊かな森林地帯であったところが多くあります。
人間の生存のためやエゴと戦争・競争のために切り尽くしたり、焼き尽くした結果が今日の砂漠の姿です。
この砂漠の広がりが、地球温暖化や異常気象の主因のひとつとなっていることを考えれば、実に由々しき問題なのです。
森林の破壊と荒廃をもたらしたのは、砂漠化した歴史とは別に、焼畑農業によるものと、20世紀の工業化社会の発展に比例してすすんでいるものとがあります。
世界的に見れば、発展途上国の急速な工業化と開発による開拓、外貨獲得のための有用木材の大量伐採と、それにつけ込んだ、日本の商社等による大量買い付け、フィリピン等でのブルト-ザ-を使っての根こそぎ伐採などがありました。
そのための山地の荒廃や森林の疲弊なども少なくありません。
東南アジアの一部やアマゾン・南米などに見る焼畑農業による森林の衷失が面積的には最も大きいのですが、近代工業化社会の発展と利益競争のために失われた森林と大径の有用材の大量伐採がもたらした被害は甚大なものがあります。
また、日本を見れば、戦争中の軍需用の大径木の伐採、戦後復興資材としての有用材の伐採、高度成長に乗っての木材の大量生産などの過伐がありました。
それ以外に森林の破壊と荒廃をもたらしたものがあります。
その主なものに、①高度成長期に代表される中山間村地帯を中心にした山林の乱開発による破壊、②高速道路網の敷設による山間部の切り崩しと自動車の排気ガスによる破壊と被害、③大量のダム湖づくりのための山間林の衷失、④里山をはじめ、林地の40%にものぼる約1000万ha以上を皆伐して人工林に替えたことによる林相と森林資源の衰退、生態系の異変、水源涵養力の低下などがあげられます。
人工林問題は改めて論ずることにしますが、今は林齢35~45年生が中心に育っているにしても、雑木等が混在する天然林とでは質的に大きな違いがあります。
しかも、人工林の内の76.5%は民有林で、その中には手入れがされずに荒れた林地が半分近くにも及んでいます。
荒れた人工林は死山に近づき、森林の機能を果たせなくなっています。
まして昭和30~40年代は山が丸坊主にされたのですから、森林機能は完全に失われていたことになります。
このように、日本の森林をとってみても、いかにその荒廃がすすんできたかがわかります。
しかも、世界の森林面積を見れば、日本を含めた先進国の森林面積は増加しているものの、発展途上地域では依然減少を続け、世界のト-タルで平成2年から5年間で約5600万ha(平成11年度林業白書)が減少しているのですから、森林の保護・育成が人類的課題であることがわかります。
●「木を切るな」のエセ環境論これらのことを見て、一部の自然保護論者たちは、木を切ることがイコ-ル自然破壊だという図式を描いて、割り箸批判や木材業への攻撃を行い、林野庁の用材生産にも批判を加え、マスコミと一緒になってエセ(似非)自然保護の宣伝を展開しました。
このエセ環境論者たちの「自然保護」「木を切るな」論については、本誌第8号特集Ⅰ「環境との共生と木材の役割」の中でも反論しているように、実に犯罪的なスロ-ガンであることを明らかにする必要があります。
その、第一に、木を切るな、木材を使うなということは、それに替るものを使えということを意味しているということです。
木という植物資源に替わるものは、鉄、コンクリ-ト、アルミ、プラスチック、塩ビ…というものになります。
石油をはじめとする地下の化石燃料や鉱物を原料として大量に使うということは何を意味するかと言えば、①多大な労力・エネルギ-をかけて地球を掘り返す、②膨大なエネルギ-を消費した精製・加工し、その過程で大量の有害ガスを発散させ、③製品としても有害性を持ち、④廃棄に際しては大地に還らず、焼却は有毒ガスをまき散らします。
これによって益を得るのは国民や地場産業ではなく、資本主義の推進者たちでしかありません。
そのすべてのしわ寄せは、消費者・国民にかぶせられることになるのです。
それを知ってか知らずか「木を切るな」「木を使うな」というのは、資本と資本主義の別働隊としての扇動者の役割を果たしていることになるのです。
だから、マスコミ資本も彼等を讃美しているのです。
第二の問題は、第一の問題とも関連した、木の家づくりの排斥運動論でしかないということです。
まさに、西洋文明による洋風住宅づくりへ煽り立てる意味を持っているということで、日本の伝統文化、地場産業・林業木材業への敵対性を示していることを表わしています。
第三の問題は、木を切ることを犯罪だと言うこと自体に犯罪性があるのを知らないということです。
それは、自然と森林・木材についての無知を証明しているにすぎません。
その誤謬性は、(1)地球自然と木と人間の関係は、自然が木を育て、自然と木が人間を育てた経緯が示すように、木は、立木としての役割と、切られて人間生活に寄与する役割とを持っていることを見ていないことにあります。
人間は、木を使わずに何10万年もの歴史を生きることはできなかったのです。
木は人間に使われるためにも生きているからです。
(2)森林の成育には自然の摂理が働いていますが、木の自力だけでは正常な循環を保つことはできません。
国有林の中に指定されている学術的な参考林は、絶対に人間が手をかけないようにしているため、葛や笹、倒木などで成長が妨げられ、死へ近づいています。
山守りが放棄された人工林は、光も風も通らなくなり、木が成育できずに死に山に近づいています。
森林は、人間がある程度手をかけ、光や風の通りを良くし、少しは林地を整理しなければ木は育つことができないのです。
人間は森林の恵みを分けてもらうことで少し森林の役に立ち、少し整理をする手助けをするのです。
そうすることで森林は育ち、人間にまたおすそ分けをしてくれます。
これが自然と人間の共生の姿の原点で、これを否定するエセ環境論者の本質は、自然破壊に手を貸して、環境を死滅させようとするものでしかないのです。
(3)もっとも肝心なことは、あらゆる地球資源の中で、草類を別にして木は唯一の再生可能な資源だということです。
再生可能な範囲内で木を切り、使うことは、自然の営みとの同化を意味しています。
エセ環境論者は、この再生の可能性を語ってはいないのです。
このように、「木を切るな」「木を使うな」という論調は、すべてにおいて無知であり、日本のこころ、木の文化を否定し、近代西洋文明に奉仕することにしかならず、その論者自身の自滅を促すものでしかないのです。
●「木を切り、木を植えよう」の環境運動 これまでを通して言えることは、木を切り、木を大切に使う。
切った以上の木を植えるということです。
そこから考えるべきことは第一に、熱帯雨林の減少は数字として示されているのですから、インドネシアなどですすめられている熱帯広葉樹の植林活動や中国の砂漠で日本の民間団体や企業がすすめるポプラなどの早生樹の植林活動の輪を広げ、国際的な運動にすることがひとつの大切な活動になっています。
「木を切るな」というエセ環境運動ではなく、「木を植えよう」という運動が本当の環境運動であることを知ってもらうことが大切だろうと考えます。
第二に、それでも熱帯雨林の木は必要な材料ですから、必要最小限に押えながらもムダなく有効に利用し、長く使うようにすることが求められてきます。
同時に、この熱帯雨林樹でなくても構わないものには、成長が早くて再生可能な早生樹や針葉樹への材料転換も現実にすすめられている対策として重視することが必要です。
第三には、特に日本では、戦後の植林木が徐々に伐期に近づいていますし、間伐材対策も急務となっていますから、この対策を強力にすすめることが必要になっています。
ここで大切なことは、間伐促進のための小手先の対策を論ずるのではなく、木の家づくりを全国的に大展開するという視点で、行政も建築界も林業・木材界もが結束してうねりを作ることです。
●「木の家をつくろう」「山を育てよう」 人工林化政策に問題はあったにしても、現実に家づくりに供するスギ・ヒノキが大量に育っているのですから、この木を生かす一番の道は木の家づくりをすすめることにあるのは誰の目にも明らかです。
しかも、21世紀を迎え、いよいよ日本らしさが大切になり、日本の木の文化の復興がひとつの大きなカギになっているときに、すべての関係者がこぞって木の家づくりにとりくむ責務があることもまた明らかです。
間伐材の利用について種々論ぜられ、各種の提案がされていることを否定するものではないにしても、家づくりと離れての間伐材対策は、やはり小手先の、その場しのぎの策と考えられるのではないでしょうか。
日本中で木の家づくりを広げるならば、その中での間伐材の利用方法はいくらでも出てくるはずです。
人工林木をはじめとした木をたくさん使って木の家をつくる。
つくる家は建築基準法や品確法を基準にした25年や30年の耐用年数ではなく、そんな法律を乗り越えた100年以上の長寿住宅を前提にすべきです。
真面目に日本の伝統構法を取り入れた家づくりは、矛盾だらけの法規制を十分にクリアできるでしょう。
(本号より田原賢さんの「木造住宅の構造を考える」で「改正基準法に伴う接合金物の仕様について」の連載が始まりますが、これは法との関係での最低の仕様を示すもので、田原さんも編集室も、これ以上の性能を持つ本来の日本の家づくりをすすめる目安となることをねがっています) CO2の問題、温暖化対策から考えても、CO2をいっぱいに貯蔵した木を、最良の建築資材として家に使うことは、100年以上そのCO2を木材に閉じ込めることになります。
そして使った分以上の木を植えることで山を育てるならば、また大気中のCO2をどんどん吸収し、酸素やマイナスイオンを供給してくれます。
しかも、今度は、スギ、ヒノキだけの山を作るのではなく、針葉樹とともに雑木や常緑広葉樹、花咲かす木や有益な実のなる木などをバランスよく植えるならば、自然の循環を促進し、日本人の感性を改めて育てることにもなっていきます。
「木を切って、木の家をつくろう」「木を植え、山を育てよう」、これが求められる本来のスロ-ガンです。
21世紀のスタ-トの年に、このうねりを大きくしたいものです。
なお、本号では、この大命題に添って「近くの山の木で家をつくる運動」やスギ材の乾燥問題もとり上げていますので、参照して下さい。
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