●地球の不思議、森と人間の存在
宇宙という無限の空間の中で、地球という星の存在は、奇跡の存在であることについて何人もの研究者が語っています。
そして、これまでの科学の常識や概念を超えて、宇宙と地球、地球と人間の誕生とその存在性について研究内容を明らかにしています。
これらについては、残念ながら現代科学の主流を占めるには至っていないため、それほど知られていないものも多くがあります。
本稿は、それを語るものではありませんが、地球が奇跡の星と言われることの一端から考えてみます。
結論的な不思議は、なぜ人間という高等動物が存在するのかにあります。
以前、本誌第14号特集「人間らしさとはなんだろう」で、人間(他の生物も同じことですが)は、目に見えない本質生命体が肉体という衣をまとっている存在であることを「超科学書『カタカムナ』の謎」(深野一幸著・廣済堂)や「宇宙の存在に癒される生き方」(天野仁著・徳間書店)などを通し紹介しました。
なぜ、心と言ってもいい本質生命体がわざわざ肉体という衣をまとい3次元世界を形成しているのかは、実に意味深いテーマです。
人間誕生の意味や人間の役割等は別に考えることにしますが、この不思議な人間という高等動物を生み出し、生かすために地球が存在していると考えざるを得ません。
地球の大気の組成は窒素78.1%、酸素20.9%、その他1%弱で、約1気圧です。
大気を有する星は、金星や火星をはじめ、宇宙に数限りなく存在しますが、二酸化炭素や水素がその主組成分ですから、地球の大気組成は特別で、生物の存在条件をつくってくれています。
それとともに、地球は水惑星と呼ばれるように、地表の約70%が海で、水の循環が生物の存在を可能にしています。
水(氷)のある星は他にもあるようですし、火星や金星には、かつては表面に水があった(今も水があるとの見解もあります)ことは確認されいますが循環する水に包まれた水惑星は地球特有の姿のようです。
そのほかにも、地上約270万㎞上空の太陽と地球の波動がぶつかり合ってできているバリア、地上30㎞上空のオゾン層、地磁気の流れなど、生物が存在できる条件が様々な形態でつくられているのが地球だと言えるでしょう。
このような条件・環境が、なぜ、どのようにして出来たのかを考えても、ある程度のメカニズムの解明は可能であっても、解明しきれないものが多々あるという事実は、地球の超不思議さを示しています。
これが偶然の組み合わせでつくられ、その結果の偶然として人間が生存しているなどというのは、不可能な確率です。
そこには、偶然や奇跡などではなく、大いなる宇宙の意志が働いていると考えるしかないのですが、この地球のもうひとつの超不思議は、究極の植物としての木が存在し、森をつくっていることです。
森と木という存在は、2億年前後の長い年月をかけて、最終的に今日の地球環境を整えてくれました。
今のような大気の組成、水の循環、地表の土壌をつくり、生態系を育ててくれたのは、2億年前後の森と木の働きによるものです。
「森と木は、人間という生物をこの地球に生み、存続させるための存在」と考えるしかないというのが本誌の見解です。
いくつもの地球的条件がつくられた上での究極の植物が木であり、2億年の木々の働きを待って誕生した究極の生物が、ヒト科のヒト、人類だということを見れば、このように考えるしかないのです。
人類の誕生が偶然の結果でなく、大いなる宇宙の意志によるものとしか考えられないということは、地球のすべての機能と機構は、人類を生み、育てることにあったと言わざるを得ないでしょう。
●森を破壊して亡びた文明人類が誕生した頃の地球は、緑に覆われていました。
今は砂漠となっている所も、以前には立派な森があったのです。
かつて、文明の栄えた地域も森があり、森の木と、森がもたらす水が文明を支えていました。
世界最初の文明が、チグリス川とユーフラテス川の河口につくられたメソポタミア文明で、最初の文字もここで生まれたことになっています。
メソポタミア以外にも、ギリシャ、インダス、黄河をはじめいくつもの栄えた文明がありました。
これらの文明が栄えていた地域には、今は森も木も見ることはできません。
文明は、森の木を切り倒し、森の恵みを食いつくして滅びたと言えるように、人間は、森のあるところでこそ暮らしを営むことができ、森がなくなると、そこには住めなくなります森が後退(南下)したり、前進(北進)したりするのは、気象変化、温暖化や寒冷化によるところが大きいのですが、森がなくなったのは、人間が森を破壊したからです。
国際日本文化センターの安田喜憲さんの講演を学習のひろばで掲載していますが、この中で、安田さんは、レバノン杉を切りに行ったメソポタミア文明の神話を紹介しています。
このことは、安田さんの「環境考古学のすすめ」(丸善ライブラリー)や「森林の荒廃と文明の衰退」(新思索社)先の本誌第20号で、国際日本思索社)などでも詳しく書かれているように、レバノン杉は1万年以上前の古代人がすでに伐採をはじめていたことが明かされています。
最終的には、メソポタミアの王が、レバノン杉を切るために、ユーフラテス川をのぼり森の神を殺して木を切ったという神話「ギルガメシュ叙事詩」が、実話をもとにしていることを、花粉の化石の研究から証明しています。
神を殺し、木を切るところから神話が始まっているのは、文明は木を切ることで興され木がなくなると亡びることを示しています。
文明の興亡から学ぶことができるのは、森に抱かれた大河の流域で文明が興こされていることであり、文明を興こし、支配したのは定住性のない遊牧民である狩猟民族・砂漠の民であったということがあげられます。
大陸の遊牧民にとっての自然は、生きる糧を与えてくれると同時に、気象の変化で生死をさまよわせる大敵でもあったのです。
ですから、自然を恐れながら自然とたたかい、自然を征服するという思想を持ち、これが絶対的な一神教と結びつくことになります。
狩猟民族・砂漠の民の自然支配の思想は、他民族への侵略、略奪、支配の思想でもありますから、メソポタミアの豊かな地の人々を支配してメソポタミア文明をつくったのです。
文明は、掟や情報を必要不可欠とし、交易等の経済活動を活発にします。
そして、森林などの自然を支配し、利用することによって栄えはしますが、人間が荒らした後の森林の若芽を、家畜に食いつくさせることによって生命の循環が失われ、砂漠化することになります。
かつての文明は、ことごとく森を破壊し、水を失って滅亡するという歴史を辿っています
●20世紀を支配した、狩猟民族の西洋文明この文明の興亡を通してもわかることは、森があってこそ人々は暮らすことができるということであり、森がなくなるとそこから移動し、新たな地を求めることになるということです。
かつて地球上では、いくつもの民族移動がありました。
寒冷化や乾燥化などの気象異変を原因としたものもありますが、その背景には自然支配・森林破壊がいつも付きまとっています。
この移動民族は、いずれも大陸の狩猟民族・砂漠の民でした。
この民族は、一部を除き、基本的に自然を愛し、自然を育てるとか、植林するという性格を持っていません。
この民族性を根っ子に持ち、20世紀を支配してきたのがアメリカに代表される西洋文明でした。
イタリアのルネッサンスに始まる近代は、砂漠の民・遊牧民族の思想に「近代」的という装いをまとった西洋文明の支配で、地球環境を修復し難いまでに破壊し、文化の行き詰まりと退廃を招き、経済も社会のシステムも極限の危機にまで追い込んできたのです。
危機的状況が世界中に広がっているということは、西洋文明が、20世紀を通して世界中を支配していたことを示しています。
近代という名の西洋思想は、資本主義と社会主義という対立、民族間の対立、日本国内の保守と革新の対立など、あらゆる対立を演出しながら、すべての対立物の双方を同時に操り、支配を浸透させてきたのです。
これが20世紀の最大のトリックで、ほとんどの日本人と世界中が、このトリックに騙されてきたのです。
日本で見れば、保守の主張と革新の主張は対立しているように見えながら日本の民族性・文化を西洋文明に売りわたし、自然を破壊して近代工業化社会を発展させ、その利益を多国籍企業に貢ぐというところで共同歩調をとってきたのです。
戦後の日本の社会の上部構造は、すべて西洋文明の支配下にあったということを見抜かなければなりません。
●文明・文化の出発点に森がある
狩猟民族・砂漠の民の支配の極みが、今日の矛盾の根源であることを見るならば、この危機を乗り越え、新しい時代をつくれるのは、森の民・農耕民族の思想と文化しかあり得ないことが浮き彫りになってきます。
文明・文化の出発点は、森にあります。
森を支配し、征服して豊かさを追求するのか、それとも、森に感謝し、森と共生しながら森を育て、自然とともに存在するのかが、あらゆる文明と文化の出発点であり、分岐点だと言えるのです。
砂漠の民は、石の文化をつくってきましたが、森の民は、木の文化を培ってきました。
石の文化は、森と木を破壊することで形づくられます。
木の文化は、森を大切にして守りながら、再生可能な資源を利用することでつくられ、育てられることになります。
戦後の日本は、長い歴史の中で初めて異民族による西洋思想、石の文化の支配を受けてきましたが、それまでの日本民族に流れていたのは、森の民の木の文化でした。
砂漠の民の思想と文化によってもたらされた矛盾と混迷を乗り越えられるのは、森の民の思想と木の文化しかありません。
それは、本来の日本の姿に返るべきことを意味しています。
これは、かつての時代の姿に返るということではなく、進歩した科学や工業、技術や知識の水準を保ちながら、森の民らしい日本民族の和の心と木の文化を大いに発揚することで、21世紀をつくることができるのです。
このことは、日本が混迷から脱して、新しい社会システムづくりに向けてすすむということであると同時に、混迷する世界を導く明りを灯すことにもなります。
それは、この数多い国家と民族の中にあって、自然とすべての生あるものに神仏を認め、自然とともにあろうとする民族は、少数民族を除いて日本民族しかないからです。
新しい社会システムがつくられて行く中で、アインシュタインが「予言のメッセージ」で述べた「真の平和へと導いてくれる者」「あらゆる国の歴史を抜き超えた、もっとも古く、また尊い家柄の者」、つまり天皇が、本来の「あめのしたしろしめすすめらぎ」(あめ=宇宙の構造や仕組み、法則性を正しく知り、それを人々に示し、まとめる者の意)としての役割に返ることでもあるように思います。
昨年12月の敬宮愛子新宮様の誕生は、21世紀を明るく、輝かしいものとする始まりのように感じさせられます。