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地場に根づき文化を築く木の家づくり

伝統の工匠の技を現代に生かす

共同工房方式で数寄屋の技術を地方に伝承
数寄屋造りに代表される伝統的な和風の木造建 築技術は、世界に誇りうる日本の文化遺産で、練 磨された工匠の技です。
 それは、日本のゆたかな木の文化の創造の母胎 となり、日本人の自然との共生を支えてきました。
 特に京都は、1200年の歴史のなかで、そのよう な技術や文化を育み、磨きつつ継承発展させてき ました。
 この技術と伝統を、この時代に枯渇させたり衰 弱させることなく、継承発展させ、自然との共生 にささえられた、より人間的な生活に貢献し、さ らにゆたかな文化の創造への途をひらこうと活動 しているのが財団法人京都伝統建築技術協会(京 伝建)です。
 この京伝建の理事長で、茶室を柱とする数寄屋 建築の第一人者である中村昌生さん(京都工芸繊 維大学名誉教授、福井工業大学教授)を訪ねまし た。
財団法人 京都伝統建築技術協会理事長 中村昌生さん 

(1)技術の伝承を山形市の公共茶室から実践  
京都・下鴨神社の横にある京伝建に中村昌生さ んを訪ねたのは、春の日の午後でした。
 ゆったり構えた落ち着いた口調から京都の精粋 と言われ、町屋とともに京都と日本の和の文化を 支えてきた、数寄屋への熱い想いが伝わってくる 時間でした。
 財団法人としての京伝建の前身は、伝統建築研 究会でした。
数寄屋は京都の伝統建築技術であり ながら、後継者も少なくなり、貴重な技術が見捨 てられて行くことを危惧し、これを継承する大工 の技術養成のための動きが始まりました。
まず、 茶室の研究をと、昭和42年に、当時の京都を代表 する3棟梁と中村さんを中心に棟梁、大工、工務 店、銘木屋の15名が集まって結成されたのがこの 研究会でした。
 中村さん等は昭和30年代の半ばから、このまま ではいけないとの思いがあり、技術の継承をどう 具体化するかを考えていて、それが研究会として の発足につながったのです。
 当時の京都には、府政を中心に、京都の数多い 伝統産業を守り育てようという動きがあり、この 研究会もその動きに合わせ、実践的活動として京 都市伝統産業会館に、中村さん等が中心に力を合 わせて造った茶室を寄贈しています。
後にこの伝 統産業会館の建て直しに際し、京都市の意向で取 りこわされ、解体されたままで放置されており、 名工の技が葬られることになり、残念がられてい ます。
 こうした下で昭和50年代に入り、いよいよ後継 者の育成と伝統建築技術者の表彰のための公的団 体の必要性が強まり、行政との話し合いの下で昭 和53年に、さらに同志の輪を広げ、一段と結束を かため京都伝統建築技術協会(京伝建)の設立を 見ることになります。
 その結成には、某建材メーカーの要請で、工務 店経営者への各地での講演会の講師を引き受けた ことがたいへん役立ったと言います。
そして財団 法人としての認定を受けるため、中村さんを代表 とする設立発起人会が作られ、55年に財団法人と して認定されたのです。
この実働組織として一級 建築士事務所京都伝統建築技術協会が作られ、こ こに伝統建築研究所が併設されました。
 京伝建の設立趣旨には、日本の木造建築の美と 技術が、海外からの建築技術の導入を主流として きたために、伝統的な木造建築の技術がもっぱら工匠の手にゆだねられたことや、建築教育での木 造建築の不毛な状態、住環境の変化、建築生産方 式の合理化、住宅産業の進出などで数寄屋普請を はじめとする高度に進歩した在来の木造建築技術 が荒廃の一途を辿っていることに警鐘を鳴らして います。
そして文化財建築物の保全と技術の継承 と共に、「大工技術を母体とした伝統建築技術の 啓蒙、調査研究、後進の養成等、有効な事業を推 進して和風建築を中心とする伝統建築技術の振興 向上を図り、文化財の保全及び広く建築文化の発 展に寄与しようとするものである」と謳っていま す。

この活動は、数寄屋建築を実践しながら後継者 の養成、技術の継承を主眼としています。
その実 践は山形市から始まっています。
 山形市には宝幢寺という古刹があり、その庭園 と客殿が山形市の公園となっていました。
その客 殿が清風荘の名の公民館として使われ、中でも茶 会の使用率が高かったことから、本格的な茶室づ くりの計画がすすみ、中村さんにその建設の要請 がなされたのです。
 茶室づくりの計画が煮つまる中で、改めて山形 市当局に招かれて、市長からの条件内容を聞き、 提出した平面図がそのまま採用されて建築が始ま ります。
 市長のからは、「京風の数寄屋造りで、これを 機に京風の技術を移植したい。
普遍性を持つ一流 一派に偏らない茶室にしたい。
茶の湯以外にも適 応しうるように」という条件の下で内容が提案さ れたといいます。

山形は昔から京都・上方文化とのゆかりも深く、 風土や盆地都市など似かよった所もあるだけに、 山形にも茶室の伝統技術を移植する模範をつくり たいとの想いが中村さんを動かしました。
 中村さんの提案で宝紅庵と命名された茶室づく りは京伝建の協力で、山形大工と京大工による共 同のチームが結成されました。
「伝建の仕事なら ば技術の提供もやろう」と京都の工匠たちからも 歓迎され、技術交流が始まったのです。
下仕事は 山形大工が京都に入って京大工と一緒に仕事をし 技術を学び、上棟からは京大工も山形に行き、一 緒に仕事がなされました。
関連の職種も京都の職 人と交流し、技術を学びながら施工がすすめられ ています。
 「この種の仕事では異なったチームの大工が共 同ですることは仲々むずかしいが、ここでは両者 が呼吸を合わせて共同工房の実を挙げ、市長の要 請に応えうる成果を結んだ」「京数寄屋の技術を 地方に普及することは、京伝建の使命ともすると ころでもあって、宝紅庵はその最初の試練だっ た」(公共茶室ー中村昌男の仕事)と中村さんは 言っています。

(2)数寄屋が出来れば、どんな木造建築もできる  
山形市での宝紅庵の経験は、その後、福岡 県大濠公園茶室づくり、新宿御苑内の茶亭の 再興に生かされています。
そのほか京都市・ ゑびす神社茶室、犬山市・有楽苑内茶室、岐 阜市・岐阜公園茶室、京都市・京都府民ホー ル茶室、岡崎市・岡崎城址公園茶室、山形 市・山寺芭蕉記念館、大阪市・花博日本庭園 茶室、名古屋市・白鳥庭園本館、福井市・金 井学園会館国際文化交流センターホール・和 室、出雲市・出雲文化伝承館松 亭・独楽庵、 碧南市・哲学たいけん村無我苑茶室、熊本市 ・熊本市武蔵塚公園茶室、四日市市・泗翠庵 など数多くの茶室を中心にした公共と民間で の木造建築で京都と日本の伝統建築技術の伝 承、後継者の養成がすすめられてきています。
 これらのほか特に話題にされているものに 山形県酒田市の酒田市出羽遊心館があります。
 山形市の宝紅庵の成果を引き継いでの建築 で、400坪以上の茶室を含む大きな木造建築で 京都と庄内の大工さんが一緒になって競い合 うように完成させたものです。
まず庄内の大 工さんが京都で技術を学び、京大工も一緒に 庄内で技術を教えながら造り上げています。
 酒田市では、この会館の企画に当り、地元 の伝統的大工技術の振興の場にしようとの意 図があり、遠方からの見学者も多かったとい います。
京丸太の切壁下地の小舞を掻いた小 間の現場には、一段と注目が集まり、職人衆 だけでなく、若い設計技術者の見学も多かっ たといいます。
 中村さんと京伝建が、京都での伝統建築技 術の継承・後継者養成と同じく重視した、地 方への技術の伝承・技術者の養成が、文化財 の修理も含めて見事に花開いています。
 「実践活動を通じて京都の技術を地方に広 げた」という中村さんたちの伝統的な茶室の 造形を基調とする公共茶室造りは、地方の棟 梁が元請けとなり、それに京都の工匠が協力 する〝共同工房方式〟がとられているのが大 きな特徴です。
 これについて中村さんは「数寄屋造りが出 来るということは、どんな木造建築でもやれ ることになる」と強調し、共同工房方式の意 義を語ります。

「良い仕事をしたいという要求は、大工さ んなら普通は誰もが持っている。
優れた技術 を結集できることと、相互の切磋琢磨のでき る組織が共同工房方式だと考えている」「行 政が計画し、数寄屋の伝統技術を持った京大 工がそこに行って一緒に仕事をすればたくさ んの人が見に来る。
見たいというなるべく多 くの人に見てもらい、みんなに刺激を与え、
技術を広げることがこの仕事の意義だと思っ ている」と中村さんの技術の伝承、大工養成 への想いは熱く、閉鎖性を感じさせないもの です。
特に公共茶室においては、それぞれの茶道 の流派色にとらわれず、あらゆる茶の湯の愛 好者に魅力ある茶室を提供することが求めら れます。
そのためには座礼中心の伝統的な形 式で、茶の湯の思想・茶道の原点に立って、 各派に違和感を持たせない造りと、細かな約 束事にも普遍性の高いものを採用する気配り で、それぞれの地の大工さんにも受け入れ易 いものが考え込まれています。
中村さんは、戦後日本人の「精神」とか 「魂」とか「心」とか言うのが憚られる時代 が続いたことを振り返り、公共茶室等を通し て日本の文化を見直し、本物志向にも応え、 地方文化の発展に寄与したいと言います。
 だからこそ、一時期流行となったような作 家の独創性や恣意的な創意を奔放に発揮する 表現ではなく、日本の本来の木造建築におけ る伝統的建築技術の継承と発展を重視してい ます。
それは伝統へのこだわりであると同時 に、独創性というのは伝統の技術を踏まえた 上で発揮されるものであるべきだとの思想が あるからです。

(3)和風の心を数寄屋にのせて大工を養成
 
最近は年に数人、若い人が大工をやりた いと京伝建に依頼が来るといいます。
宮大 工という仕事もありながら、なお数寄屋を やりたいという彼等を工匠のもとへ送って 大工の育成をしています。寺院建築と違い 多種多様な材を使いこなし、いろんな技術 に対応できるのが数寄屋だからこそ、いま の時代に数寄屋が求められているようです。
 中村さんは学校での教育も、机上だけで なく実作こそが大切と、現場での経験を大 切にしています。
 
数寄屋の伝統技術を継承しながら、現代 和風として花咲かせたいとの情熱を燃やす 中村さん。
「書院の固さではなく、もっと 自由で、いかつくなく、平明で環境・自然 と共生できる親しみのあるデザインを志向 したい。そういう現代の和風のエキスが数 寄屋であり、茶室だろう。
だから、数寄の 技術を特殊なものと見ないで、それを生み だしたソフトに注目すべきだ」と語ります。
 科学万能の時代が続いてきたが、実際の 家づくりではハードよりソフト面が大切で、 ソフトがないとものは造れない、ソフトが 決まれば自ずとハードが工夫できると考え るから、中村さんの建築論は、数寄屋の理 念、和の心が中心に据わっています。
「和 風と和風のもてなしとは科学では語れず、 それは心のはず」との哲学が根っ子にある から「ものに添って心を常に考える、もの と影とを一体に考える」という建築思想が 生きています。
 今もなお設計から建築までmでなく尺を 使っていると言います。
日本の文化を支え てきた計量法で尺貫法の合理性を知り尽く している所以と言えるものです。
その和の心、日本の文化を形にしたもの のひとつが茶の湯であり、数寄屋・茶室で す。
その心には不均斉、簡素、幽玄、自然 (じねん)、静寂などがあげられますが (本誌第3号「住まいの文化と日本のこころ を探る,参照)、数寄屋の世界はまさにそ れを生かしたもので、造りは引き算の世界 です。
不要なものを引き去り、命となると ころから始まるのですから、そこに必要な ものを加えれば何でもできるし、どんなも のでも造れることになります。
 中村さんは数寄屋のこの心を語り、「だ から建築設計の道理を究めるためにこそ数 寄屋を知ってほしいし、数寄屋を通して建 築設計の道理を今一度確かめてもらいたい」 と呼びかけています。

和風住宅の減少、大工の減少、後継者の 不足などと悲観的な声が方々から聞かされ て久しいものがありますが、木造住宅への 生活者の要求の高まりがあり、建築に携わ る人々の中での木造住宅造りの復興のうね りが起こっている中で、中村さんと京伝建 による伝統の建築技術の継承、文化財の保 全、そして共同工房方式による地方への技 術の伝承と工匠の育成は、大工・工務店と 日本の住文化の明るい未来を示していると 言えるでしょう。
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