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木のこころ

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木の家づくりの歴史に学

古代から続く日本の木の家づくり

●本格木造建築を生む飛鳥・奈良時代 飛鳥・奈良時代になって渡来人の蘇我氏が権力を握ったことで、古代神道を押し退けて仏教が布教され、本格的な寺院建築が始まりました。
朝鮮半島の百済から仏舎利とともに僧侶、寺工、露盤、瓦、画工などの寺院建築に必要な人々が送り込まれてきます。
  寺院の特徴は、伽藍の中央に塔があり、それを取り囲んで東・西・北に3棟の金堂全体を回廊が囲むという朝鮮半島の伽藍形式がそのまま持ち込まれたと考えられます 大きな屋根に瓦を葺き、基壇を設けて礎石の上に太い柱を立て、部材を彩色するという従来の日本には見られないもので、瓦葺きや礎石がここから始まったと言えるようです。

しかし、8世紀前半には、薬師寺東塔以降に見る、雲形の肘木・斗を使用したり、組物が天秤形式で軒を支持する構造形式が生まれていますし、シンプルで合理的であり、古式を示す寺も建築されています。
  一方、7世紀後半からは唐の宮殿建築の技法が持ち込まれ、それが寺院建築に移植されて定着するようになります。
  日本で大規模な宮殿建築が初めて造られたのは、大化の改新後の難波京の宮殿ですが、ここでは伝統的な堀立柱の技法が用いられており、中国風の宮殿技法が用いられたのは藤原京の宮殿とされています。
  こうした経緯を背景に、伝統技法に朝鮮や中国の影響も受けた寺院が8世紀には次々と建立されています。
奈良県の名だたる寺院の多くはこの時代のものです。
  神社や宮殿と寺院が建築の中で特筆される飛鳥・奈良・古墳時代に比べ、平安時代に入ると寺院の形式は多様化しますが、住宅建築での新しい変化が生まれてきました。
それは寝殿造です。
  これは貴族の住宅で、中心となる正殿を寝殿と呼んだことによるものです。
当時の建物の形態等は文献と発掘によって知られていますが、平安時代400年の間に遣唐使を中止したこともあり、中国文化から離れて、日本風の建築として変化し、定着したところに注目する必要があります。
  寝殿造の形は、南向きの寝殿を中央に建て、その左右背後に対屋を設け、寝殿と対屋は廊下(渡殿、渡廊)で結び、寝殿の南庭を隔てて池を設けて中島を築き、池に臨んで釣殿を設けています。
邸の四方に築垣を設けて東西に門を開き、南庭と門との間に中門を設けています。
寝殿・対屋は周囲に蔀戸を吊り、妻戸を設け、室内は板敷とし、簾・壁代・几帳・帳台などを用いています。
  建物は、全体として左右対称でしたが、徐々に造り方が非対称へ変化したと考えられます。
それは、貴族生活の中で重要な部分を占める儀式の変化等が作用しているものと思われます。
  また、この頃の絵巻物には、庶民住宅の初期的な形態と考えられる長屋の姿が描かれていることから、平安京は、都市として成り立っていたことがわかります。


● 今も生きる中世の建築技法 中世の鎌倉・南北朝・室町時代になると寺院・神社・城郭・住宅で建築技法の新たな発展を見ることができます。
  変化・発展を呼んだ要因の中には、12世紀の源平合戦等による奈良・京都を中心にした地域での寺院をはじめとする建築物の焼失からの復興や再建、奈良・京都周辺での大径木材の減少への対応、奈良・京都を襲った大地震による被害から考えられるようになった地震対策、社会の発展に伴う寺社を中心にした都市化等がありました。
  これらの課題を解決するために、中国から大仏様式や禅宗様式と呼ばれる新様式の導入や、従来の和風技法の改善が行われています。
  社寺建築における特徴的な変化は、①貫工法による軸組みに代表されるような、柱を貫通する部材を多用し、軸部を水平方向に固める。
②桔木による軸出しでの組物の簡略化や貫工法等で入側柱などの構造部材の省略化。
③木割り(建物全体の比例や部材の寸法を、高度な寸法体系により細かく定める)の設計システムの確立。
④構造部材を意匠化して現わしにする。
⑤柱を貫通して交差する部材の継手・仕口の工夫。
⑥地方の発展に伴う地方色の出現などを見ることができます。
  また13世紀に入ると幕府や寺社による工匠と呼ばれる大工集団が作られ、工匠による造宮が盛んに行われるようにもなってきます。
  貴族を中心にした住宅様式は、平安時代までの寝殿造から次第に書院造へと変わって行きます。
  まず、京都の貴族住宅は、当初は寝殿造の伝統を守ろうとしつつも、社会の変化に応じた変化を迫られます。
皇族や上級貴族の邸宅では、上段のある弘御所や公卿用の座を持つ接客用の建物が出現し、それにつれて寝室を含む日常の居間的な建物は寝殿から独立して、これを中心とした居住空間が生まれます。
ここでは書院造に見られる角柱や遣戸、明障子や襖(襖障子)などが多く使われ、小部屋に分割されるようになりました。
  また、鎌倉でも13世紀中頃から住宅の変化が目立ってきています。
武家社会では封建制度を維持するために、主君が家臣宅を訪問する御成があり、当初は檜皮葺の寝殿が造られていましたが、13世紀中頃からは別棟が造られるようになって、寝殿は儀式専用へと変わり、接客空間と生活空間の分離が進行します。
これにより、妻をはじめとする家族の居所は敷地の北に集められ、表と奥の空間が形成されるようになりました。
  同時に、必要に応じて大小の部屋を自由に分割できるようにすると、不規則になる構造材や高さが変化する屋根を隠すために天井が必要になり、この頃から竿縁天井という吊り構造の天井が生まれ、現代まで引き継がれています。
  畳もまたこの頃になると生産量が増えたこともあり、寝殿造では相対して2列に敷いていた畳を、室内の周囲に沿って敷く追回しになり、次第に全面に敷くようにと変わってきました。
  追回し敷きの形の席が普及すると、連歌や茶会の席として用いられ、さらに会合のための部屋も出現し、襖障子や壁にも絵画や模様が施されるようになり、室内空間の装飾性が強くなっています。
  これが南北朝・室町時代になると、北山文化、東山文化へと引き継がれる中で、生活芸術が盛んになり、会合用の会所や座敷飾り庭園などが発達して床の間を持つ書院造りが完成します。
北山文化を代表するのが金閣寺で、東山文化を代表するものに銀閣寺がありますが、寺社だけでなく、貴族の邸宅にまで書院造が広がり、会所・座敷飾で生活芸術が盛んになっただけでなく従来にも増して自然との一体化が追求されています。
  室内に自然を感じさせる絵画や床の間の飾り、障子を開けて自然を採り入れるための庭園づくりから、縁側がつくられます。
さらに濡れ縁へと広げられ、もっと自然に近づきたいとして突き出た月見台までが設けられ、縁側から庭(自然)へと続く置き石の路をつくるのもこの頃からになります。
   書院造を型として完成させる上で重要な役割を果たしているのが、寺院建築等から始められた木割りの技法で、この応用が、東山文化の中で確立したとされています 東山文化の生んだ美意識と自然との一体性が「渋さ」の追求にあり、東山文化は、京都における町衆文化と各地での戦国文化へと伝播し、それらが統合して桃山文化へ引き継がれることになりました。


●「和のこころ」を集大成した桃山時代 桃山文化は、東山文化とそれほど変化がなかったと思われるのは、住宅建築での変化が見られないことにありますが、この時代に「和のこころ」と言われる日本の文化のまとまりがつくられたことに大きな意味があります。
太古から受け継がれてきた日本の精神的伝統を、生活文化の向上の中で集大成したのが「和のこころ」「和の文化」です。
  それが日本のこころとして大きな底流となっているもので、それは(1)完全な形を少しやつすことで、束縛から離れ、生きた心を見ようとする「不均斉」です。
日本の超古代文献から流れる七五調に代表されるような素数が持つ機能的な心が生きるのもこの不均斉にあります。
(2)余分なものは削るという引き算の考え方や形づくりを言う「簡素」です。
単純・質素を追求することで、自然に近づき、宇宙と一体になろうとする姿がここにあります。
(3)直接的には示さず、陰影を持ち、暗示的要求で、より深く心を追求する「幽玄」で、"侘び・寂び"の世界、能や庵の世界がその中に含まれます。
(4)自然とともにあることを尊び、自然に溶け込むことで自然と一体になろうとする心を示す「自然(じねん)」で、住まいも住まい方も自然とともにを貫く思想です。
(5)内なる世界に目を向け、自らを問う内観で、自己のめざめと精神を育て、宇宙と一体の自己をめざす「静寂」の心で、「道」を言う芸術・文化・武道の究極とも言えるものです。
  北山文化の時代に、座敷飾りの演出・鑑定、道具類の管理をした一人に千利休の祖父・千阿弥がいますが、利休が茶の湯の道を確立し、数寄屋を造ったのもこの桃山時代の「和のこころ」の追求からであったことは、特記すべきことです。


●中世に出現した堀立柱の民家 これまでに見てきた建築の歴史は、それぞれの時代の権力者による寺院や貴族・上流階級の人たちの建築でした。
縄文時代の集落以降の建築物は、このような高度な技術を持つ大工たちによる建築にしか表わされていなかったからであり、多くの庶民の住まいは、より簡素で、より粗末なもので、その痕跡や史料がほとんど見られないことによるものです。
  民家の歴史を辿ると、古代の竪穴住居が中世に至るまで残されています。
鎌倉時代に堀立柱の長方形平面の住居が普及し、それが中世になって一般的となっています。
  この民家は、丸太柱や面をとらない角柱を外面に一間ごとに地面に埋め立てるものと、その中まで柱を立てる総柱型とがあります。
屋根の構造は、同じ高さの柱の上に梁をかけ、その上に桁を乗せて軸組を目立たせ、それに束などを乗せて屋根を支える小屋組をつくるものと、柱を棟木や母屋桁まで届く長さのものを使い、軸組と小屋組を一体化するものとがあったとされています。
  屋根は、垂木の上に長板や茅を葺き、壁は、板や網代を貼るか土壁を塗り、床は一部または全部が土間で、板床のある上層民家では薄い畳や筵を敷くこともあったようです。
  中世の民家の最大の変化は、竪穴住居の屋根を支えていた柱とその外側を囲む壁が発達し、上屋という屋根を支える部分と、その軒先をやや細い柱でつくった壁で囲む下屋の二つからなる建築構造が生まれたことです。
本誌でも現存する最古の民家として紹介した兵庫県の箱木千年家は、この構造を見せています。
  当時の民家は、大きなものでも10~20坪、百姓家などは4~7坪と小さいものでしたが、上層の家は礎石建で、近世の民家につながる原形と考えられます。
  また、京都などでは平安時代から町家が存在していましたが、広がりを見せるのは中世の鎌倉後期とされています。
  商工業と流通の飛躍的な発展は、各地に町場と呼ばれる小都市を生み、町家、土蔵その他が建てられるようになりますし、町衆文化が盛んになった京都、奈良、堺、博多などでは、小さな町家から侘数寄の草庵茶室が生まれ、利休による数寄屋建築へと発展することになります。
  この頃の町家は、まだ規模が小さく、間口3間の10坪程度であったとされています。

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