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人間の特性と住まいを考える
ミクロの世界の研究に学ぶ
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●ミクロの世界の研究に学ぶ
いよいよ21世紀を迎えようとしています。
20世紀を乗り越えてすすむ21世紀は、
20世紀がつくり出した矛盾の克服と埋もれさせてきたものの復権とを初頭の課題とせざ
るを得ません。
本誌第9号の特集「21世紀へ木の家づくりの輪を広げよう」のその(1)「21世紀へ
の基調を考える」で考察したように、20世紀的発展の必然的な結果として、21世紀初
頭の基調は、第1に自然との調和と共生、第2にこころと人間らしさを大切にする新
人間主義、第3に本物主義とならざるを得ないところにあります。
この3つのテーマはそれぞれ強い関連性を持ち、生き方・考え方・在り方を問うも
のとなっています。
そこで、本稿では、人間と人間らしさについて考え、そこから住まいと住まい方に
迫ってみようと思います。
◎"こころ"を封殺してきた20世紀
21世紀のテーマとして人間らしく生きるということが大切になってくるのですが、
「人間らしく生きる」と言うといろいろ異論があることでしょう。
「面倒くさいことを言うな、今が楽しければいいじゃないか」とも、「今の生き方に満
足している」とも、「精一杯生きているんだから」とも言われそうですが、人間らしさが
21世紀の大きなテーマとなるのはなぜかという問題がありますし、人間を根源的な視点
から見直すべき時に来ているからだともと考えて稿を起します。
以前にも触れたように、20世紀に代表される近代を貫いてきたのは、資本による利潤
の飽くなき追求でした。
そのために地球自然を支配し、資源を奪い取って大量生産をし、
大量消費、大量廃棄を煽り、繁栄を追うことを良しとする風潮をつくってきました。
「モノ・カネ・欲」に集約される価値基準の下で通用したのが資本の論理、富者の利益、
勝者の言い分でした。
この経済至上主義の下では人間らしさや"こころ"は考慮の対象と
はされませんでした。
それどころか、それはむしろ邪魔でさえあったのです。
人間性や
"こころ"が介在すれば、資本の増殖意志が妨げられ、勝者の理論が通用せず、わずか数%
の人が富の過半数を所有することが出来なくなってしまいます。
人権尊重や男女同権などという言い方は、近代と勝者たちの非人間性のカモフラージュ
でしかなかったのです。
言うならば20世紀の経済は、人間らしさや"こころ"を封殺することによって成り立
ってきたと言えるのです。
押し殺された"こころ"は、近代の枠組みの中で「モノ・カネ
欲」を追求するか、目先の自己満足を求める個人主義・利己主義に置き替えられ、それ
が満たされなければ暴発するような歪んだ社会の姿をつくってきたのです。
個々人が、目先のことや自分のことしか考えられなくなるように、ミクロの世界の研究
や日本の歴史・精神文化をはじめとする真実や本質が隠され、近代科学を信奉させられて
きました。
教育やマスコミもそれに一役買い、ギャンブルやスリル、快楽主義が煽られて
きました。
そして、その陰で資本が増殖を続け、環境が破壊され、社会の混迷が広がって
きたのです。
その矛盾が限界近くにまで来ているからこそ、地球と日本の再生をめざさざるを得なく
なっているのが21世紀であり、それは、経済主義ではなく、人間らしさと"こころ"を
育てる新しい人間主義を基礎とすることでこそすすめることができるのです。
ここに、人間らしさを問い直すべきひとつの大きな理由があります。
◎"こころ"の世界はミクロの世界
もうひとつの理由は、近代科学の枠組みの限界を乗り越え、意識や精神の領域を含む分
野の究明がすすみ、ミクロとマクロへの新しい理解が必要となってきたからです。
ルネッサンス以降にうち立てられたベーコンやデカルトにはじまる近代科学は、それま
での科学が領域の中に入れていた神や精神を研究の対象から除外しました。
意識と物質が
2分され、唯物の世界が広げられ、それに基づく歴史観や宇宙観、人生観に支配されてきま
した。
そのためにこの分野の研究が大きく遅れてしまったのですが、ミクロの世界の究明がす
すむにつれて、意識と物質が根源のところで結びついていることが明かされてきました。
科学の最先端を行く量子力学研究は、精神世界と物質世界を統一的に捉えることを可能に
していますし、統一的に捉えなければ事物と事象の本質を理解できないことを教えてくれ
ています。
これまでにも近代科学が解明しきれていないミクロの世界のことについて何度か触れ、
第13号の水に関する稿の中でも、物質が細胞の集合体で、細胞は分子の集合体、分子は
原子の集合体、原子は中性子と陽子の集合による原子核と電子の結合体であることを書き
ました。
その中性子と陽子と電子の結合する数の違いでいろんな種類の元素が作られるこ
とにも触れました。
ここまででもわかるように、存在するものは、それよりもひとつ小さな単位の結合体か
らできています。
これが宇宙のすべての存在の基本原理となっているのですから、近代科
学が解明している電子、中性子、陽子もまた、より小さな存在の集合体ということになり
ます。
最新の素粒子論によれば、陽子や中性子の元になっている超微粒子とも呼ぶ素粒子の大
きさは10-33cm、陽子の大きさの1020分の1だと言います。
それは粒子であると同時に弦
(ひも)と言われ、それぞれ固有の振動の仕方をもつ波動としてとらえられています。
宇宙の原理から言えば、この超微粒子もまた、より小さな存在の結合体と考えても不思
議ではないのですが、それはともかくとしても、この超ミクロの素粒子は、本誌第13号で
触れたように、渋谷直樹・和嘉子著「想造力」によれば情報であり、エネルギーでもある
ことになります。
このことについては天野仁理学博士の「宇宙の存在に癒される生き方」(徳間書店)に
わかりやすく書かれています。
天野さんは、この中で、すべての物質には、3次元空間で
確認できる物体には、その本質としての生気体(本質生命体)が重なって存在し、そ
れが"こころ"や意志、精神であり、魂でもあると明言しています。
そして、その生
気体が受け持っている「生きている力」や「意志の力」を媒介するのが超微粒子であり
、思念波ともいうものであると言っています。
このように最先端の科学が行き着いたところが10-33cm以下の超微粒子の世界で、
それが"こころ"の世界と結びついているのです。
これは、古く中国の道教にあるタオの
思想に見られるものですから、欧米のニューサイエンス学者の多くが、タオの学習を本格
化しているのです。
素粒子研究を通じて物質世界と精神世界が一体にとらえられるようになったのですが、
別の言い方をすれば、数百年間、自然科学(近代科学)が検証性のないものとして研究を
拒絶していたために解明されなかった精神・"こころ"がようやく理解され、研究の遅れを取
り戻す段階に入ってきたと言えるようです。
しかし、もっと驚くべきことは、本誌で再
三にわたり紹介してきたカタカムナ文献の中に、すでに物質世界と精神世界が一体のもの
であることが記されていることです。
その中には、宇宙のすべてのモノの始まりがアメという究極の超微粒子で、その集合体
としての宇宙の気=アマ始元量が凝集して目に見えない核をつくり、これが宇宙球を創り
、万物万象の元になっていて、それをカムナという目に見えない力が支配しているとして
います。
そしてアマ始元量の8つの性質として現象世界(物質世界)と潜象世界(精神世
界)を生む正反対称性とひずみ性、ら旋回転性、対向発生性などがあり、さらに、粒子性
や波動性、膨張性や収縮性を持つ微分結合性、重含・互換性、統計的存在性、極限循環性
、同種反発・異種親和性があることを解明しています。
(澤野一幸著「超科学書『カタカム
ナ』の謎」参照) 量子物理学や宇宙学がようやく到達しかけた宇宙空間の本質が上古代
(1~5万年前)のカタカムナ文献ではすでに解明されていたのです。
そして、それを受けたように数千年前から東洋と西洋の科学者や宗教家たちがその研究を
していたのですから、この数百年の科学がいかに歪んで遅れていたかを知ることができます。
◎目に見えない本質生命体
話が難しくなってしまいましたが、このように見てくると、人間らしさを考える前提で
ある"こころ"や精神の問題は、近代科学の枠内では解明することも理解することもでき
ないことがわかります。
行き着くところは、超ミクロの世界、すべての物質を形成する元である超微粒子の質量、
性質の研究ということになります。
そして、それを最先端の量子力学・素粒子論が解明し
はじめているということや、上古代のカタカムナの人々がそれを文献にしていたこと、そ
のカタカムナを原点にしていると思われる道教の思想などがあるのですから、そこから学
ぶことが大切ではないかと思います。
そこで、もう少しカタカムナ文献から学んでみることにします。
すべてのものの始まりがアマ始元量ですが、そのさらに根源は10-80cmと思われる
究極粒子のマリと呼ばれるカム(目に見えないチカラが無限に広がる世界)無元量で、こ
のマリから電気、磁気、力、時、空間の5つの素量ができるといいます。
そしてこの中の
電気、磁気、力の3つの素量からできるモコロという素粒子から物質や生命体が創られて
いること、イノチは5つの素量の粒子が、変遷し連帯するものといいます。
ココロ(ここ
ろ)とは、思念のあるマリからできた物質であると言っています。
ですから、宇宙空間に
実在するものも、精神や思念、こころなどの見えないものも、すべては究極の超微粒子の
働きであり、その存在の仕方によるものであることが理解されているのです。
そして、カタカムナも量子力学も、物質世界は目に見えない精神世界(潜象世界)との
2重構造になっていて、"こころ"はその見えない部分である本質生命体(天野さんは生気
体と表現している)にあると言います。
脳科学を含め、科学が必死になって"こころ"の
所在を究明しようとしても、物質化していない"こころ"を検知できないのは当然のこと
で、潜象世界に実証性や再現性を求めることはできないのです。
では、その本質生命体の構造はどうなっているのかを見ると、原子核を元にしていると
言います。
先に見たように、素粒子が回転しながら結合して中性子、陽子、電子ができ、
中性子と陽子が回転しながら結合して原子核がつくられます。
この原子核に電子が結合し
て物質化するのですが、電子が結合せず、物質化していない原子核だけが回転しながら結
合を繰り返して、物質化せずに物質との2重構造をつくっているものが本質生命体と呼ば
れるものであると言います。
"こころ"は脳にあるのではなく、この本質生命体にあり、脳はそのプログラム(指令
)に従って働くコンピューターのようなものと考えるこことが適正なようです。
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ですから、死というのは、肉体の滅亡ではなく、物質(肉体)から本質生命体が離れた
状態を指していると考えられるようになっていますし、カタカムナの人たちもそう捉えて
いました。
カタカムナも最先端の科学者もこの点では同じ答えを導き出し、あらゆる物質には本質
生命体が宿り、こころがあると言います。
その生命体は生物の方が強く大きく働いており、
石などの無機質なものは弱いことも明らかにしています。
(カタカムナ文献では鉱物ほどモ
コロの内の生命系が少ないと言っています)。
21世紀はこころの時代とも言い、人間らしさが求められるとも言いますが、この究極
の素粒子の研究から離れて語ることができないもので、それは21世紀の課題と言うべき
ものです。
本誌での話は、その序として頭の隅に入れてもらえればと思います。
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