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「和」と「愛」を基底にする日本の民族性
住まいの文化は民族の誇り
民族性がつくる住まいの文化
●「和」と「愛」を基底にする日本の民族性
日本民族という言葉が使われることはあまりないようです。
それどころか、民族という
と古い昔の未開の時代と思う人や、縄文時代の頃を思う人がいるのではないでしょうか。
それほど日本民族とか民族性ということが語られることが少なくなっています。
民族主義といえば、発展途上の被支配国での独立運動か何かで、日本とはあまり関係の
ないものとの意識も強いようです。
なぜ、民族ということが語られなくなったかについては別に考えることにしますが、こ
れからの時代、21世紀になると、いよいよ見直されてくるのが日本と「日本らしさ」です
。
そこで問われてくるのが日本民族の特性です。
民族については「文化の伝統を共有することによって歴史的に形成され、同属意識を持
つ人々の集団。
文化の中でも特に言語を共有することが重要視され、また宗教や生業形態
が民族的な伝統となることも多い。
社会生活の基本的な構成単位であるが、一定の地域内
に住むとは限らず、複数の民族が共存する社会も多い・・・」(広辞苑)とされてます。
日本の民族性を語る場合、アイヌ民族や沖縄民族が持ち出されますが、先程の定義から
言えば、長い年月にわたって文化の伝統をすべて包含して共有し、同属意識が歴史的に形
成されていると言えるのですから、区分けする必要はないと考えられます。
日本の歴史を遡れば、大和・奈良朝廷の時代には大陸や朝鮮からの何千人もの渡来があ
り、日本の歴史と文化に大きな関わりを持ちました。
もっと遡れば、日本は島国でなく、ユーラシア大陸の東端に位置し、他民族が幸いの地
を求めてその地に辿りつき、定住し、融合したところに現在の日本民族の始まりがあると
されています。
その年代については、文献上ではいくつかの説がありますが、今から30
万年前頃と考えられます。
やがて大陸から離れて島国日本が形づくられて今日に至って
います。
大陸での民族が、太平洋の島々や東南アジアへも流れている事実から見れば、ア
イヌ・沖縄も元は、今日の日本民族を形成する人たちだったと言えるでしょう。
70万年
前後昔の遺構が東北地方で発見されていますから、この人たちが古来からの民族だったの
かもしれませんが、気温の温暖時と寒冷時には、森林の構成も移動し、それにつれて人々
も移動していますので、民族や人種の違いを示すものはありません。
またその頃は、まだ
大陸の1部と考えられますので、その点からも特別に考察する必要はないと思われます。
○多民族が融合した日本の民族
日本民族の形成は、このように見ると数十万年、数百万年の単一民族ではなく、多くの
民族の融合によって形成されていることがわかります。
以前にも本誌で書いていますが、多民族の融合によってひとつの民族が形成された例と
いうのは他に見られないことです。
今でもアメリカをはじめ、多くの国々には多民族がひ
とつの国家を形成しているという多民族国家の姿はありますが、融合することなく、いつ
も民族間の利害や権利が影を落しています。
ところが日本は、見事にひとつの民族にまとまり、30万年近くもの長い間、他民族の
侵略や支配を受けることはありませんでした。
これは、人類の歴史から見ても・奇跡の国
・日本・と呼べるほどのことです。
ここに日本民族の特性、日本的な民族性がつくられる大きな基礎があります。
その根本
にあるのが包み込み、融合することにあり、多民族が結びつき、ひとつの姿をつくれたの
です。
混ぜ合わせることで新しくてより良いものをつくるのと同じ姿です。
対立や対決よりも話し合い、和合することを良しとするのも日本民族です。
白黒の決着
や右か左かのように二者択一を迫るのではなく、曖昧なように見えても両者を認め合うと
いう、清濁合せ飲むとか玉虫色と西洋から批判されるところに日本らしさがあるのです。
和のこころの中にある自然や不均斉というのは、こういうところからきていると言える
でしょう。
日本の民族性の根幹をなしているものこそが、この「和」という心ではないでしょうか
。
「和」は「なごむ」であり「やわす」「わす」です。
つまり、おだやかなこと、なごやか
なこと、のどかなこと、仲良くすること、うまくまざることという意味を持っています。
「
和」は「大和」を指していますが、「大和」は大きな和「大調和」を意味しています。
この根底に流れるものは、人を信じ、理解し、認め、愛するというこころです。
疑い、相手を否定することで自己をなぐさめ、欠点を探して批判し、負かして支配する
という性質を強く持っているのが砂漠の民で、それを支えているのが唯一絶対神を信仰す
る宗教であり、その上に咲いている西洋文明です。
西洋文明を良しとして受け入れてきた日本の戦後は、日本民族が初めて他民族の支配を
受けた期間でした。
この50年余の文明支配と洗脳で、和のこころを洗い流され、疑い、批判し、対決する
ことで自分の存在を確認しているようなところが多いのが今の日本の姿ではないでしょうか。
●上古代から息づく日本の民族性
もうひとつ日本の民族性を考える上で大切なことは、日本民族が森の民であり、農耕民
族であることです。
学校の教科書あたりでは、縄文時代の人々が動物の毛皮を身につけ
、弓矢を持って、狩猟民族であるかのように扱っています。
狩猟もしていたことも確かで
すが、それ以上に食糧の中心にあったのは栗を中心とする木の実でした。
三内丸山遺跡からは、周辺に大量の栗の木が植えられていたことが証明されています。
発掘された縄文遺跡から発見された食糧は、木の実を主に、卵、鳥や鹿の肉や血・骨髄な
どを摺り合わせて焼いたものが主食であったと報告されています。
初期の時点では木の実や動物の肉が多かったのでしょうが、少なくとも3千年以上前、
縄文中期から後期にかけては稲作へと主力が移っていることは、東北・岡山・九州その他
の遺構などから確認されています。
米づくりは1500年程前に中国から伝来したという誤った断定から、縄文生活を野蛮な
ものと見なしてしまいました。
それに、大和朝廷以降は、権力者に不都合の多い古代、上
古代が語られなくなってしまっていたのです。
その上古代からの日本にカタカムナ文字や
龍神文字、形象文字、おしで文字などが存在し、高度な精神文化があったことは、第12
号で一部紹介している通りです。
これまでは、文化がつくられたのは弥生時代からという
前提でしたから、上古代観や縄文観が検証されず、歪められてきたのです。
○森の民・農耕民族の特性が生きている
この認識に立って日本の民族性を考えれば、上古代からの日本人は森林の中での生活を
していたことがわかります。
氷河期にあっても日本を覆っていた森林は広葉樹が主体でした。
常緑の温帯性広葉樹と落葉の冷温帯性広葉樹が、気温の変化で日本列島を上下してい
ました。
人々が主に暮らした所は、その2つの広葉樹林帯の中間に存在するクリ・コナラ
林帯でした。
森林での暮らしから出てくる民族性というのは、自然と共生しながら、自然の恵みに感
謝し、限りある食糧をみんなで分かち合うという精神でした。
決して奪い合ったり、殺し
合ったりするのではなく、分かち合うことで和を育てるという姿がつくられてきたのです。
占有欲が強まり、奪い合うようになれば、その欲望は限りなく大きくなります。
それは
、欲望の向上の法則が働くようになるからです。
少ないものでも分かち合うことで、慈し
み、思いやり、いたわり、互助互恵の精神が育ちます。
それは一口で言えば「愛」であり
「慈愛」の心です。
農耕が発達するようになっても、農作業はもちろん、水の利用や道
具の利用も、みんなで共有し、助け合うという精神を損なうということはなかったのです。
また農耕を通してつけ加えられた民族性が、みんなが食べられるように収穫を増やすた
めに働き、実りの喜びを分かち合うところから生まれる、誠実、勤勉さです。
このように、弥生時代以降、権力者、支配者が出て、搾取と取奪がはじまり、争いがお
こるようになるまでの間の30万年前後の日本人は、融合民族であり、森林の民・農耕民
族であったことで「和」と「愛」の心を持って、誠実・勤勉、互助の精神を貫き、その上
に文化を育ててきたのです。
私たちは、いつの間にか、日本の民族性を学ぶこともなくなっているのですが、本来の
民族性を知らされることもなかったのです。
○見えなくされている民族性
私たちは、上古代から縄文時代には文字も文化もなく、野蛮人であるかのように思わさ
れ、中国文化の伝来から日本の文化がつくられるようになったという歴史観を持たされて
きました。
眼が曇っていては真実は見えません。
日本の民族性が見えていなかったのはある意味で
は仕方がなかったのかもしれません。
日本の歴史が見えなければ、民族性も見えず、日本の素晴らしさも見えてこないのです
から、誇りが持てないということにもなるのでしょう。
そこには、日本人に、民族意識
を持たせないように、日本のアイデンティティに目ざめさせないようにという意図が働い
ていたのです。
それは、本誌第13号の「木の家づくりと林業・木材の活性化に向けて」の中でも書い
たように、愛国心やナショナリティ(民族性)を失わせることは、ある民族を支配する異
民族の必要条件であるからです。
政治や経済だけでなく、社会全体に矛盾が極限まで拡大し、人の心も乱れに乱れ、混迷
の極みの中で世紀の終わりを迎えようとしているのは、とりもなおさず資本主義という制
度と体制にあることと、アメリカを代理人とした資本、近代を支配する国際金融資本、異
民族による文明に日本が支配されてきたからにほかなりません。
この下で、自己中心主義が人びとの心を支配し、我欲が何よりも優先され、自分のこと
だけで頭がいっぱいで、人の心を思いやるゆとりも豊かさもなくなっている人があまりに
も多いのではないでしょうか。
人殺しに始まる犯罪の多さ、見つからなければそれで通る
と思う心、そこには慈悲はもちろん、自主的な規律やモラルさえ失われそうな現実があり
ます。
誰もが憂い、矛盾や怒りを覚え、行き場のないもどかしさを感じている現実をもたらし
たものこそが、西洋文明に支配されて、日本のこころが失われたことによるものであるこ
とは明らかではないでしょうか。
このままの状態で新しい世紀を続けるならば、あらゆる矛盾の爆発によって取り返しの
つかない日本と世界になることは、火を見るよりも明らかなことです。
これに環境破壊が
進行によって、この先どうなるのかを考えれば、20世紀の延長線上で21世紀をつくるこ
とができないのは、あまりにも歴然としています。
この混沌とした矛盾を乗り越えて21世紀の夢広がる日本をつくるには、この数十年間
眠らされていた和のこころを呼び醒ます以外にはないのです。
和のこころは何も古代や縄文時代に還ることを指しているのではありません。
江戸時代
までの日本はいかに権力抗争や権力支配があったとは言え、異国文化も上手に取り入れな
がら、和の文化をつくり、和のこころで結ばれていました。
各地に残る祭り事や結(ゆい
)という互助互恵の姿などはその代表的なものですし、これは今も残っているのです。
家と街のつくりも自然の摂理に従い、自然の循環の中にありました。
明治以降は、大急ぎで西洋文明を受け入れながらも、主体としての和のこころが失われ
ることはなかったのですから、約30万年の日本民族の歴史から見れば、ほんのちょっと
道を踏みはずしただけのことでしかありません。
ただ、いま生きている私たちは、その人生のほとんどを近代思想、西洋文明の檻の中で
過ごしてきたために、少々目醒めるのに抵抗感があるのかもしれません。
ホームページの制作者が出会った山林労働者の方の山林労働の話をまとめたものです。大正3年生まれだそうで、現在では殆ど行われなくなった木材伐出の手法の貴重なお話をまとめたものです。山小屋、枝打ち、皮はぎ、桶材、担ぎ-斜叉、担ぎ職人、鳶と鶴、算盤修羅、ワイヤーの出貌、手車、道路、水力式製材、複数の飛ばし線、鉄線の張上げ、「湧かす」、奈留修羅、闊業樹の伐出、七部切り、投げ臼、飛び付き臼、溝途堰、堰出し作業、狩り川、アバ、捻、捻の縛り方、目牙組み、鐶組み、筏乗り師、川悪日、古木の流送、筏の鉄砲堰、無人尻取り架線、山之神祭り、矢遠のブレーキ、架線の運澱、本線締め、架線の種類などの項目にわかれています。
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