●民家時代の到来、桃山・江戸時代 桃山・江戸時代を近世と呼んでいますが、民家・町家・数寄屋が現代に引き継がれる形態を確立したのがこの頃で、それまで建築を代表していた社寺や上流階級の邸宅に替わって建築の主役になってきます。
建築史で見れば、江戸時代に入るまでの16世紀には、天守閣を持つ多くの城郭が造られていますし、江戸時代中頃まで多くの社寺仏閣が建てられますが、社寺等においては時代を表現する画一的なものではなく、地方や宗派その他で、構造や形式、装飾などは多様で復古的なものも多かったとされています。
上流階級の邸宅は、型としては書院造を引き継ぎながら、機能化するなど変化しているものの、時代を代表する建築は生まれておらず、町家・民家が時代を代表する型を作ったと考えられます。
民家は言うまでもなく庶民の住まいですが、地域や生業・身分などの諸条件によって多様な民家がつくられました。
民家には、農家・漁家・町家・下級武士家が含まれますが、主に考えられるのは農家で、一般の町家その他も農家を原形にしており、それほどの違いはないと言えるようです。
民家と言っても遺構や史料で確認できるものは、上層の人びとの住まいで、下層の多くの人びとの住まいは、もっと簡素なものであったと思われます。
民家の多くは、18世紀後半までは堀立柱の形態が主で、それ以降、礎石建て(石場建て)が増えてきます。
室町時代後期の民家の構造が、そのまま近世に受け継がれてきているようで、箱木千年家に見られるように、前座敷3間取りの茅葺きで、軒が低く、土壁づくりで、土間を広く取り、家畜を養っている場合が多く見られます。
軸部は上家・下家からなり、垂木構造(扠首構造もある)の小屋組が主でした。
これらは、地侍の住宅の姿で、それが近世民家の型になったと考えられます。
18世紀中頃からは、3間取りから、広間を持つ3間取りや4間取りという、いわゆる田の字の座敷に土間を持つ構造が出てきます。
さらに、この頃から3間取り、4間取りを基本に座敷を増やしたり、床の間や付書院など書院造の要素を取り入れるものも出てきます。
立地条件や町中の条件などに応じて、横長や間口3間の縦長民家もつくられることになります。
規模が大きくなると、軸部と小屋組の分離が見られるようになり、軸部は上屋・下屋の構成で、差鴨居や梁組の工夫で内部柱の省略がすすみます。
小屋構造は、棟木や桁の上に垂木を架け渡す垂木構造、梁の上に扠首を組んだ扠首構造、梁の上に貫と束を組んだ和小屋などが見られ、地域性や意匠性などがあらわれますが、民家を特徴づけるものは、梁の力強さと美しさにあります。
屋根は、茅葺き、瓦葺き、板葺きによる外観の違いが見られ、地域性もあらわれます。
養蚕の普及から、巨大な扠首を急傾斜に組んだ合掌造が出現したのも18世紀と見られます。
民家の中でも町家は、都市部や宿場、在郷町などの町場では形式が異なりますが、街路に面して並び建つ庶民の家のことで、建物全面の意匠や間口・棟方向・屋根の形式などに一定の秩序が保たれているのが特徴です。
代表的なのが中世末期の京町家で、間口3間程度で面格子を持ち、単層切妻造・平入りの板葺屋根の2階建てで、隣家に接するように街路に面して建ち並んでいます。
中には隣家との間に卯建を設けるものもありますし、地方によっては、草葺屋根もありました。
また、1階部分を開放的な店構えにして通り土間を持ち、格子を大きくとるものも見られます。
江戸の町家は、何回もの火災を経験して徐々に耐火建築へと変化しています。
京都や奈良とは異なり、土蔵風で重厚な意匠を持ち、「みせ」の土間は奥まで通さず敷地奥への出入りのために主家脇に路地を持つのが一般的でした。
江戸をはじめとした城下町では、城を囲むように、書院風の上中級の武家屋敷が建ち、下級武士は城下町の外郭に町人の住居を囲むように配された長屋などに住むことが多かったようです。
また中下級の武家住宅では、応待を主目的とするような、広間風の部屋を持つものが多くあり、これが、近代住宅の応接間・居間の構成につながったと考えられています。
●家づくりに通底する自然との共生の思想 少し煩雑になりましたが、古代から近世・江戸時代までの住まいの流れを俯瞰的に見てきました。
生活様式の変化、生活文化の向上、時代背景、大陸文化の伝来などの諸条件により、型の変化と発展が見られます。
ある建築家は、ひとつの型が出来てから次型をつくりあげるのに約400年を要すると言っています。
それは、古代~4世紀の高床竪穴式、~8世紀の寝殿造、~12世紀の書院造、~16世紀の数寄屋、~20世紀の自在造だとしています。
書院造などは12世紀で型として成立して以降、実際には20世紀まで続いていたり数寄屋が時代の主流であったわけではないなどの指摘も可能ですが、型をつくるという意味では、そう考えることもできるようです。
庶民の家の歴史については、正確な史料が残されていないこともあって粗いものになりましたが、庶民の家にしろ、上流階級の家にしろ、構造や構法の違いを乗り超えて、その通底に流れるものの中にこそ日本民族が受け継いできた家づくりの理念があることを学ぶことが大切であろうと思います。
読者のみなさんは、すでに理解されていることでしょうが、改めて整理してみます。
まず、家を造るに当たっての根本思想と前提としていたものは何かについてです。
家を造ることだけでなく、存在すること自体における根本にあるのが自然との共生、自然に親しみ、自然に従い、自然とともにという思想です。
超古代から続く自然観は、陽・風・水や四季という現象的な自然のみを言うのではなく、その自然現象を呼び、人間を生かし、地上に存在するすべてのいのちを統合する「天のこころ」・創造主・宇宙神そのものを自然としていたことにあります。
古代の人々は、自然の存在のすべて、自然現象のすべてに神を認識したからこそ、自然に従い、自然を愛し、自然と自然の恵みに感謝し、自然に畏怖したと考えられるのです。
西洋の思想は、自然を神の与えしものとは考えていますが、その利用は神の子である人間に委ねられているという考えですから、自然支配へとつながります。
それに対して、自然そのものを神とする日本の思想は、人間も自然に生かされている存在として、自然の中で共生し、自然の恵みを使わさせて頂くという考えで貫かれています。
古代から続く家づくりには一貫してこの思想が流れています。
ですから、自然との共生、自然と一体となった住まい方を大前提にした上での家づくりは、自然の素材を使うことであり、その中心にあるのが木と土でした。
それに草類が加えられ、補助的に石を使うというもので、自分たちと同じ自然の下での有機物を主な素材とすることで自然と一体となって生きるという思想を実践しているもので、同じ気候・風土の下で育った呼吸する素材とともに生きることで自然との一体性を追求したとも言うことができます。
つくる家に地域性が見られるのは、その地域ごとの気候・風土の違いや、育つ材料の違いがあるからのことで、時代がすすむとそこに職業に応じたつくり方や階級による差が生まれ、同時に、その時代その時代の文化を反映したものにという変化が生まれます。
地震対策が必要となり、貫などの横架材が見られるようになるのは治承元年(1176年)に京都・奈良を襲った大地震以降ですが、縄文以来この時まで地震対策が考慮されていなかったことは注目に値します。
地震は、エゴとストレスが増大し、地下に沈澱した人々のストレスが飽和状態になった時に地球がそのストレスを放散する現象とも言われているからで、時代背景と震源地が京都・奈良であることからも考えさせられるものがあります。
もうひとつ、日本の家づくりの中で忘れてはならないのが互助の精神です。
集落を成した縄文時代は当然ながら共同作業でしたが、この精神は庶民の家づくりの中に一貫して流れていることです。
中世に至るまでの簡素な民家の段階では記録に残っていませんが、近世になっての民家づくりを、都市部では普請といい、地域社会の助け合いのもとで行われ、その援助の詳細が普請帳に記されています。
その頃の農村部では、自給自足の経済で、地域集団の相互協力・互助が自然な姿でしたから、制度化されているいないにかかわらず、互助の関係は家づくりだけでなく、農作業や冠婚葬祭など生活のあらゆる面で根づいていたもので、いつの時代からか、これを「結」と呼んでおり、今でも各地にこの姿が残されています。
●柱立てと木組みこそ日本建築の真髄 以上が日本の家づくりの通底に流れる主な思想・精神と思われますが、その基底の上に、時代と家の型の変化にもかかわらず共通するものがあります。
それは以前にも書いていますが、第1にあげられるのが柱立ての思想です。
先に触れた大黒柱にはじまり、家の命を支えるものを木の柱として、それを大地に根付かせているところにこそ日本建築の真髄を見ることができます。
ここには「大地に根付き、大地とともに」という思想があります。
柱立ては古代から長きにわたり、大地に穴を掘って柱の根元を埋める掘立柱の構法でした。
飛鳥・奈良時代に朝鮮から伝来した技法により、礎石を根元にはさむようになりますが、柱底に礎石にピッタリとひかり付けることで大地に根付かせています。
第2にあげられるのが屋根を持っていることです。
「上記」の一部で紹介したように、棟木を選別し、棟木祭を行うことが記されています。
今でもこれは上棟祭とか棟上式として行われており、柱立てに次いでの棟上げで家の骨格がつくられたとして祝う様子を見ることが出来ます。
この棟の上に屋根が載せられるのですから、基本形は山形の家となり、それをもとに屋根の形が変化させられています日本の本来の家の屋根に丸型や平坦で箱形をするようなものがないのは、棟木による構法だからと言えるのです。
第3にあげられるのは、木組みの家づくりです。
柱を立て、棟木を上げ、それを中心にした木組み構法であり、後には天井の小屋組みにまで発展させられています現わしにした木組みの技法は日本古来のもので、後に大陸からの技法が加えられていますが、ここにこそ日本の木造建築の技術の高さ、建築物の力強さと美しさが表現されていると言えます。
今も外国の建築家が、日本建築の粋は木組みの素晴らしさだと称讃しているのですから、日本人こそが木組みへの誇りを持ちたいものです 第4にあげられるのが住まい方との関係で、自然に親しみ、自然とともにという思想です。
自然とともにの根本思想はすでに触れましたが、家づくりと住まい方にもこの思想が生かされています。
太陽や月の明かり、自然の風や香りや音(音波)を取り入れ、家の中に居ながらも自然との一体感を求め、さらには周囲の風景の利用(借景)や庭づくりをしますし、月見台まで設けたりします。
夏の暑さや冬の寒さにも人工的に対処するのではなく、設いで凌ぐ工夫がされています。
今は膨大なエネルギー使用等による温暖化などで、ある程度の人工的な対処は避けられませんが、でき得る限り自然と親しみ合う気風を育てたいものです。
以上、見てきた通り、日本の家は自然と共生した木の家で、木の家づくりは木の文化、日本の文化の主柱をなすものでした。
太古から続く日本のこころを取りかえし、木の家づくりが大きな広がりになる日を一日も早く迎えたいものです。