2025年4月、大阪で再び万博が開催されました。その影響もあって、1970年の大阪万博が改めて注目を集めるようになっています。
正式名称は「日本万国博覧会(Japan World Exposition, Osaka 1970)」で、1970年3月15日から9月13日までの183日間、大阪府吹田市で開催されました。これはアジアで初めて、そして日本で最初の国際博覧会(登録博・本格的な万国博覧会)であり、参加国数・来場者数ともに当時としては史上最大規模を誇りました。
通称は「万博」あるいは「EXPO'70」として広く親しまれました。
「木の情報発信基地」の運営者である私・中川勝弘は、この日本万国博覧会の協会職員として、会期前から終了後までちょうど1年間勤務していました。大学3回生の2月に、大阪東通のアルバイトとして「お祭り広場」の進行係に応募したことがきっかけでしたが、その後4月からは正式に協会職員として採用されました。
所属は事業第一部製作三課、勤務地は「お祭り広場」の楽屋で、主に楽屋業務全般を担当していました。会期終了後も残務整理などの業務を担い、翌年まで協会で勤務しておりました。
さて、木材や木製品に関して思い返すと、当時の印象的な出来事がいくつも思い出されます。
一般的に「日本は木の国」と言われ、日本人は木を好む国民性があるとされています。しかし、1970年の万博では、日本関連の展示や建築において木材の使用は驚くほど少なく、むしろ日本人の方が木を避けていたのではと思えるほどでした。
当時の日本では、「木材は古くさいもの」という風潮があり、代わりにメタルやプラスチックなどの新素材が、時代の先端を象徴するものと捉えられていました。一方で欧米諸国では、今も昔も、人の目や手が触れる部分には自然素材、特に木材が最適だとする感覚が根づいています。この点において、文化的には優れている日本ですが、感性という面では、まだ一歩遅れていたのではないかと私は感じています。
1970年の万博には、国内外あわせて87のパビリオンがありました。そのうち木材を構造や内装に多用していたのは52館ありましたが、その大半は海外からの出展でした。とくにカナダ、ニュージーランド、アメリカといった当時の先進国は、木材を前面に打ち出して展示や建築に活用していました。
このような背景から、日本人と外国人の木材や木製品に対する感性や捉え方の違いを、多くの方に知っていただきたいと考え、「木の情報発信基地」でこのテーマを取り上げました。
幸いにも、万博終了後の残務整理期間中に、協会内に集まった多くの資料や写真を自由に閲覧・保存する機会がありました。自身で撮影したものに加え、友人やカメラマンから提供を受けた写真、そして会場マップをもとに私が描いたイラストも収録しています。
ぜひ以下の展示をご覧ください。特に、木材を建築本体にふんだんに使用していたカナダ館、ブリティッシュコロンビア州館(カナダ)、ワシントン州館(米国)、ニュージーランド館、タンザニア館、フィリピン館、シンガポール館、ブルガリア館、ビルマ館などは見応えがありました。
中川勝弘
2019年5月25日