模は木の型、「型」は貨幣を鋳造用の土の型であり、模型は、規格という熟語ができるまでは現在の規格の意味であった。 今や模型は、ミニチュアモデルの意味が強い。
「摸造(手探りで造る)」と「模造(模型どおりに造る)」とが混同し、模のイメージは低下しているが、模型どおりに造るということは、工業化の原点であるし、スキルを身に付けるときの大切な過程である。したがって、模型の良し悪しはその仕事の死命を左右するので模型作りには相当の知力労力資力がつぎ込まれていた。現在だったら最大限に保護されるべき知的財産権の代表だろうが、そのような発想は、漢字文化圏には元来無かった。
容易には盗めないほどに自分がデザインした品物や仕事の手順を盗むだけの能力がありかつ信頼できる弟子達によって引き継がれればよし、引き継がれなければ自分が生まれてくるのが早かったと悟り、容易に盗まれるようでは自分が未熟だと考えてさらに努力をするという哲学であった。狩猟文化圏でも多分産業革命を背景として資本主義が興るまでは同じではなかったと考える。
「もんじゅ」のナトリウム漏れ事故は、事後の対応に問題が大きかったがために技術的な問題への対策が霞んでしまったが、実は模型どおりに造るということの課題を含んでいる。事故を起こしたパイプは、電力会社(から委託されたプラント設計会社?)の設計であり、製作は金型加工の専門工場に外注している。受注した工場はその用途によって加工法が変わるからとパイプの中を流れる液体の性質や流速を知りたがったのだが、電力会社は、設計上の秘密として図面どおりに作ることだけを指示して発注した。事故の後その工場は,「あのように使われるのだったらもっと強い加工法があったのに」と呟いた。
かつて木材の加工は、身近なものであったから、納められたものがどのように使われるかを考えに考えてユーザーに喜ばれるものを造っていた。しかし、近代法(=欧米法)は、 請負と委託とを明確に区分することによって形成される財産の帰属を明快にする体系である。かつての大工の棟梁のように、設計から請負までを一体的に行なうことは不明朗として 排除されるばかりか、独立した設計という概念が発注者側のものであることから、請負よりも上位にあるとの勘違いまで蔓延させている。
結果的に、生産者側から一方的に商品開発をして多額のPR経費をかけて売り込むというプロダクトアウトが行なわれるようになり、その傾向は最もふさわしくない木材加工業にも及んでいる。
様は、樹種として「くぬぎ」であるが、その板 に手本を書いて多くの人に掲示したり、回覧したことから「模範」を指して使われるようになった。工事の「仕様書」や手続きの「様式」にその名残がある。しかし、人を敬う時の「様」は、「」という礼法に用いる字と古くから混同していたとのことでもあり、この点でも「模」の先輩格である。
「模様ながめ」は、職人などが、どのデザインにしようかと熟慮をしているのかサボっているのか判らない状態から発し、今では様子見の意味に使われている。
ところで、仕様どおりの加工さえすればよいという極端な分業に問題が出てきていることもあって、最近は性能に注目が集まっている。性能の向上よりも宣伝経費をかけた方が良いなどというメーカーは、消耗品だけの世界にして欲しいが、子々孫々に残る住宅の世界にもそのようなメーカーがいたため、建築住宅法制の性能規定化が行なわれた。しかし、数限りない建築や住宅に求められる性能のうちほんの一部しか技術基準として定めることができないことと、長い歴史の波をくぐってきた仕様の中には、多くの性能を背景として形成されたものとを考えると安易に性能に走るのには問題がある。とくに多様な人が住む住宅にはその傾向が強い。しかし、性能となりうる項目のすべてを同列に評価することは、時間の浪費でもありナンセンスである。最初の節に適材適所を書いたが、所詮は人生と社会のバランス感覚である。仕様一辺倒も、性能一辺倒もいずれも文化的には薄っぺらなものにしかならない。