この字は、「主たる木(の利用)」と言う会意文字ではないかと期待させるが、そうでなく形声文字である。 人類の祖先が洞穴を出ることになったのは、牧畜や栽培の技術を身につけたからである。牧畜適地では樹木は少ないが、石材には恵まれていたから洞穴と同じように石や固めた土(レンガ)を壁のように積み上げて生活空間を造った。 漢字文化圏は、土壌が豊富で柔らかく、草木が良く成長する栽培適地だったから石造家屋は造られなかった。当初は拓いた農地に、栽培作物を野獣の侵入から守ることを兼ねて木を差し掛け合わせた三角形の生活空間を造ったと考えられる。やがて三角屋根を持ち上げて大きな空間を囲うための柱が考案された。 三内丸山遺跡の三階建ては驚異だが、通常は、登呂遺跡の復元家屋のように、二本の柱に棟木を渡す方法から軸組構法は始まったと考えられる。大黒柱とえびす柱とを持つ古い民家を見ると、二本の主柱と棟木を中心に他の柱や梁を付け足していっている。そして棟木に平行に貫(ぬき)を入れて補強している形は、神社の鳥居の形にそっくりである。 裕福で信心深い建築主は、地鎮祭の後、基礎工事と土台工事が終わって立柱式(建前=柱建て)を行う。伊奘冉命(いざなみのみこと)が伊奘諾命(いざなぎのみこと)に「あなにやしえ男を」と愛を告げてしまったのは小凝(おのころ)島での新居の柱建ての場である。女性からの求愛がはしたないので、体形の定まらない蛭子(えびす)神が生まれ、海に流したとの神話は、現代の感覚には受け入れがたいものがあるが、したたかに海で生き延びて七福神の一員として、大黒天とともに住宅の主柱に名が残る
と言うのは、混迷の現代に示唆するところがある。 平成十年春は、諏訪大社の御柱祭りであった。このほかにも古い神社で同様の祭りが行われているが、これらは、柱そのものを崇めているのではない。天皇や皇帝が代わるたびに都移りをして人心の一新を図るという人間世界の政(まつりごと)が神の世界に反映し、伊勢神宮で行われているような御遷宮が各地で行われていたが、資源保護を含む氏子たちの負担軽減の観点から簡素化した儀式になったものである。 「はしら」と読む字に楹がある。社寺などの大規模建築物に用いられる円柱のことである。御「柱」祭りは、この字のほうが良いかもしれない。法隆寺の金堂の楹には、ギリシャ神殿の列柱に見られるエンタシスが伝えられていると中学の美術などで教えている。しかし、古代地中海沿岸に豊富にあったレバノン杉が枯渇し、これを模してギリシャで石柱が造られたことを考えると、中国や日本には直接レバノン杉の楹が伝わったと考えて良いのではないだろうか。
「一家の柱」「政策の柱」と比喩されて頼りにされてきた柱だが、大黒柱、えびす柱、楹とも建築技術の分野から歴史や美術の分野に追いやられている。現実に住宅用に流通しているのは、表向き10.5㎝角の規格の柱が中心である。京風の瀟洒な造りに使われていたものが、第二次大戦後の資材不足時代に一気に全国制覇をしたようである。 阪神・淡路大震災の後、当財団では実大の木造住宅で震動実験を行った。外力に住宅がどう反応するかのデータが大量に得られ、その後の補足実験などを経て、パソコンを用いる新たな強度設計法を開発した。また、地震時には集中的に力が作用する隅角部では、柱自体の強度のほかに、作用した力の殆どを地面に伝えることができるように柱が土台や基礎にしっかりと繋がっていることの重要性が再確認され、平成十年の改正建築基準法にはこれが接合部の基準として盛り込まれた。柱や土台が10.5㎝角のままでは、ほぞと込み栓で繋いでも、細過ぎて大きな力は伝え切れない。そこで接合金物も同法で規定されたが、取り付け方が難しい場合や径が大きい場合の省略法が明らかでないなど問題は残っている。