このような住宅建築の大きな変化の中で、木材の面でも大きな変化が生じております。注文住宅の場合であれば、注文がくるまではその住宅の柱にどういう樹種を使うのか分からない――米栂でゆくのか、国産の杉でゆくのか桧でゆくのか、集成材でゆくのか、注文主の好みによって変わるので――、大工さんからその住宅に使う材の注文がきて初めて分かるということだった。また、樹種だけでなく、寸法的にも、「一〇cm角でいいんや」と言うのか「一〇・五cm角でなければいかん」と言うのか、一二cm角で行くのか、注文がくるまでは分からなかった。そして、柱が決まってから、敷居、鴨居、土台などの寸法や樹種が決まってくると言うことですから、材木屋さんとすれば勢い一定の同じ材を大量にストックしておくことができないということになります。ですから、少しくらいの量はそれぞれの材木屋さんは持っているけれども、あとは注文に応じて木材市場買おうかということになり、こうした材木屋さんの要望にしたがって木材市場が三日にあけず市を開かなければならない。そういうことで木材市場が発達したわけでもあります。ところが、注文住宅に替わって建売り住宅が主流になってくると、一軒ごとの間取りが違いますから使用木材の数量は一軒一軒違いますけれど、使用木材の樹種や寸法は前もって全部決まっているわけです。例えば、A不動産は一〇・三cmの柱を使う。一方、B不動産は一〇・五cmのJAS製品を使う。つまり、ある業者は一〇・五cmの柱でゆく、ある業者は一〇・三cmでゆく、ある業者は日本間だけは集成材でゆく、というように、構造体の使用材種・寸法は、各メーカーによって全部前もって決まってしまうわけです。
そうすると、その建売り住宅メーカーは、年間に五百戸の住宅を建てる、三百戸建てる、百戸建てるというように計画して建築を進めてゆくのですから、それだけの量の木材をこなし得る木材業者でないと、そのメーカーの相手ができなくなってしまいます。注文住宅の場合には、二戸、三戸、四戸というような少量であるために、商い量の少ない材木店でも対応できたわけですけれども、片方で大量消費ということが出現してきたために、それに対しては大量に材を扱う木材業者でなければあかんということになってきたのです。大量に材を扱う木材業者は、建築計画によって決まった量の木材を長期に受注できる。と言うよりも、長期の受注を要請される。単価的には、例えば半年間は同じ値段にして欲しいという要請を受けることになる。勢い長期契約で受注をしなければならないということになって、このことが大量供給が可能な米材を非常に発展させた一つの原因にもなったわけです。もしこの時期に米材がなかったとしたら、国産材の供給体制というものは随分変わってきたでしょうが、同じ規格の米材が大量にしかも長期にわたって輸入されてくるという状態があったために、この大量供給の体制ができ上がったわけです。大阪の木材業界の歩みをふりかえってみても、大手納材業者が集まり関西納材協会を発足させたのが昭和四一年五月であり、関西、名古屋にもその後納材協会が発足して、全国納材協会連合会が発足したのが翌年の四二年五月でした。その後、関西納材協会は四四年六月に関西納材協同組合へと改組脱皮し、共同購入や毎月の販売単価表の作成及び各社の与信管理のために建設業者の信用調査を共同でするなど大いに活躍してきましたが、それも、従来の個別散在住宅の小さい需要の「点」から、大きい需要の「面」に変わってきたので、パイプが太くなり、太くなったために共同購入することによって、パイプを短くできたのです。