幕末の政治・情報・文化の関係について
前国立歴史民俗博物館長 宮地正人氏のご協力を得、1988年11月5日 愛知大学記念会館での講演から製作しました。
江戸では江戸で、知識人というのはサークルを作っていました。ですから、翌年、安政元年(1854)11月4日付の箕作阮甫の家族宛の手紙も、どういうわけか、羽山大学の風説留に入ってくる。11月4日というと、箕作阮甫が下田に行って、東海大地震で下田が洗い流される。その時の手紙です。大騒動の話を家族に宛る。その家族に宛てた手紙が、江戸で回覧されたに違いない。その手紙が、今度は菊池海荘のところに、海荘から塩見、塩見から羽山に来る。こういう動きです。
二番目は、これは全国レベルの商業網を持っていますから、江戸なり関東の情報が、菊池海荘の店の者からの手紙が来る。しかも、その手紙は商業用だけではなく、政治の話が書いてある。江戸店を持つのは、菊池海荘だけではありません。同じレベルの有田郡の豪農・豪商は江戸店を持っている、従って江戸店を持っている有田郡の豪商の手紙も菊池のところに来て、そしてまた日高郡に回る。そしてこの情報の中で、私がなるほどと思ったのは、有田郡といえば、菊池海荘以上に現在の人が知っているのは、浜口梧陵です。「やまさ」の醤油を造り、現在まで資本家として行き続けている浜口家。同家は広村にいますから、有田郡の広村と栖原はすぐ目と鼻の先なのです。菊池海荘の店よりも、浜口梧陵の店の方が大きい。銚子、江戸に持っている。そして何故、関東の政治情報が入るかというのは、一面では筑波の事件のように、関東の政治状況自体が自らの商業活動という死活の問題に響くからです。ですから、そういう浜口の情報が菊池に来る。逆に菊池の情報が浜口梧陵に行っている。そしてその情報は、その二人の間に留められないで瀬見善水からこの一介の田舎の在村医の羽山大学まで来る、ということです。
<戻る 25頁 次へ>
幕末の政治・情報・文化の関係Topにもどる