前国立歴史民俗博物館長 宮地正人氏のご協力を得、1988年11月5日 愛知大学記念会館での講演から製作しました。
但し、こういう情報の拡大というのは、僕が思いもよらなかった広がりを持っているといったのは、瀬見的レベルにこの羽山の場合には留まっていなかったということです。少し話が横道にそれますが、一番風説書の分析で困るのは、殆どの風説書はどこから情報を手に入れたのかを書いていない。それで困るのですが、羽山のはほぼ書いてある。彼の情報の枠を一挙に広げたのは、瀬見より一段上の知識人が紀州にいたからなのです。これは、国学者ではありません。むしろ、今では和歌以上に顧みられなくなっている漢詩人なのです。菊池海荘という人が、日高郡の北の有田郡栖原にいます。菊池海荘というのは、瀬見よりも一段上の豪商で、有田郡の多くの豪商は江戸店を持っていますがその一人です。彼は何冊か詩集を出しますが、そこに序文なり、抜文を書いているのは、梁川星厳であり、広瀬淡窓の弟で力量としては淡窓以上といわれた広瀬旭荘、或いは蘭学者の大槻盤溪あたりが書いていますから、当時としては、まさに全国の知識人が当然知っている漢詩人なのです。この菊池という人は、海防に造詣があった人で、一面ではいわゆる攘夷派です。彼は、自分が集めた情報を南の日高郡に送るときの媒介として瀬見を使っていました。全て彼の手紙は、瀬見宛なのです。そして瀬見宛の手紙が、今度日高郡の間だとぐるっと回覧されて羽山に来る。こういう情報のルートが作られていた。