幕末の政治・情報・文化の関係について
前国立歴史民俗博物館長 宮地正人氏のご協力を得、1988年11月5日 愛知大学記念会館での講演から製作しました。
二つ目は、瀬見という人は、先ほど言いましたようにハイレベルの知識人ですから、京都の知識人との繋がりがある。何人かの名前が出てきますがここで関係するのは新宮涼助という人です。新宮と言いますと、これはお父さんの涼庭という人、これは蘭学者でしかも大金持で諸藩にまで金を貸し付けた人ですが、その人の息子と瀬見は関係を持っています。ですから、京都の情報、例えば安政5年(1858)6月、条約勅許ができなかったその直後の京都情報が、この新宮から瀬見、瀬見から羽山に来るのです。そして安政5年9月、安政大獄の幕が京都で切られる。梅田雲浜が捕縛されます。その事件を瀬見が報告しているのが、この新宮なのです。京都で、誰がいつ逮捕されたかというのが、新宮から瀬見に手紙が来て、そして瀬見の手紙が羽山に行く。こういう形で、一介の在村のお医者さんに、京都の非常に詳しい情報が入ってくる。
三番目は、瀬見という人の教養からして当然なのですけれども、国学や歌の繋がりでの情報です。
安政7年(1860)3月24日に、大坂玉造の佐々木春夫という人が瀬見に手紙を出します。佐々木春夫という人は、瀬見善水と同じく、加納諸平の歌の高弟です。それも、人名辞典にも出る程の有名な大坂の豪商です。そして、歌をやり、国学をやる人です。彼が親友の瀬見善水に何を報告したか。大坂で桜田門外の首謀者の一人高橋多一郎が切腹したという事件を報告しているのは、この大坂の佐々木春夫なのです。少し時期が過ぎまして、元治元年(1864)6月に、瀬見が羽山に書を送ります。前の年、9月から10月は、有名な天誅組の乱、紀州藩が大騒動していました。紀州の山のむこうは、吉野郷なのですから。そこでの立役者の一人伴林光平の「南山遺稿」を、瀬見が手に入れて羽山に送った。そして、伴林という人は、尊攘の志士だけではなく、本来は加納諸平の歌の高弟で、良い歌を非常に多く詠んでいる人なのです。こういう形での話が入ってくる。
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