幕末の政治・情報・文化の関係について
前国立歴史民俗博物館長 宮地正人氏のご協力を得、1988年11月5日 愛知大学記念会館での講演から製作しました。
そういう意味において、私は幕末維新の政治過程ということについて非常に興味をもっているのです。しかしながら、最近はそういうような政治過程の余りにも目まぐるしく、側に年表でも置かないと、寺田屋事件と池田事件がどちらが先でどちらが後かということが分からないような目まぐるしい事件だけを追い掛けているのがいいのかどうか、ということに多少疑問を持ち始めたわけです。言い換えますと、ペリー来航が1853年、安政五ヶ国条約が1858年、60年には桜田門外の変、そして62年に寺田屋事件というふうに、政治の前面に出てきた人々なり、そのグループだけを追い掛けていたのでは、維新変革の全体の構造とそのエネルギー、或いはもう少し別のいい方をしますと、このように人々をつき動かした政治的或いは社会的主体の全体は掴めないのではないか、というように私は考えるようになってきました。
では、このような、どんな史料でも出されると面白いし新しい知見が出る、そしてその中の民衆のエネルギーが感じられるようなそういう史料の全体のエネルギーをどう確定できるのか、という問題ですが、ここで私が今ぶつかって余りうまく整理されていないままなのですが、情報という問題にぶつかったわけです。
例を取り上げますと、ペリー来航といった今まで想像できなかった事態にまず動き出したのは政治活動ではありませんでした。一体この事態は何なのか、そしてあの4艘なり9艘の黒船を率いて来たアメリカというのは一体どういう国なのか。或いは、アメリカを含め日本を覆い包もうとしている世界の動きは、一体どちらの方向に進もうとしているのか、といった情報への要求、しかもこれは江戸のみならず日本全体を覆った情報への要求が第一に出てきたわけです。そして、このような民衆の底辺まで含んだ情報への要求が強まれば強まる程、先程私が言った政治の舞台に出てくる人々の動きの強さが強化されるという、密接不可分な関係を持っているのではないか、というように考えるようになってきました。しかも、私が今言いました情報自体は、当時は新聞もありませんし、情報交換自体が下手をすると幕府なり藩によって弾圧されますから、どのようにして集めたのかということが、次の問題になってくるのです。
<戻る 2頁 次へ>
幕末の政治・情報・文化の関係Topにもどる