幕末の政治・情報・文化の関係について
前国立歴史民俗博物館長 宮地正人氏のご協力を得、1988年11月5日 愛知大学記念会館での講演から製作しました。
二番目に内密情報が入るのは、お城の御坊主と呼ばれる人々です。御坊主というと、大名が登城するとお茶を出したり、色々世話をしたりすると説明されていますが、幕末の政治史から見ると、やはり情報提供者として光っている集団の一つです。「御用御頼み」という言葉ではなくて、「御出入御坊主」というようになっていますが、肥後藩では何人か抱えている。そして、肥後藩御出入の御坊主から情報が入る。特に、江戸城内で決められた人事情報は、御坊主から来るのです。蛇足ですが文学史で言えば、幸田露伴という方がいらっしゃいます。その幸田家はお城の御坊主なのです。ですから、尾登さんが非常に裕福な暮らしをしていたと、幸田露伴の伝記に書いてあります。大名の御出入になると、盆暮れの付け届けが数十両では効かなかったようです。
私は肥後藩のを見て、「なるほど」とあらためて思ったのは勘定奉行所の筋の情報なのです。勘定奉行所は天領を押さえるわけですから肥後藩とは何も関係がない、と思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、非常に関係がある。何故ならば、勘定奉行所は東北から九州まで全国に広がっている天領の作付けの情報を持っているわけです。ですから、西国或いは九州・飛騨領でどの位の米の収穫がありそうかという秋の見通しを勘定奉行所は作りますがそれが肥後藩では大事なのです。肥後藩の米を大坂でいつ、いくらで売るかという問題に関わってくるからです。ですから慶応2年(1866)の、世直し一揆と長州戦争で物価がもっとも上がったときに、勘定奉行所から手に入れた米の作付け書付を肥後藩の江戸屋敷は早馬で国許に送っているのです。一刻を争う情報なのです。
ところで、江戸の町中の情報収集は、やはり町奉行所の人間と関係する。一つは、町奉行所の同心と関係を付けるわけです。これも、「御出入町方同心」という名前で出ています。一つは、町方手先の者です。いわば、岡引きと結び付きます。岡引きというのは、どの位いたかは分かりませんけれども、そういう人のある部分を「御出入」にするのです。「肥後藩御出入」にして、しょっちゅう藩邸に出入させながら、細かい情報を手に入れる。私が見た資料では、他の人が提供した材料よりこの町方手先が出した情報の方が詳しくて正しいのです。具体的には、慶応2年のときには、江戸の打ちこわしの問題があります。どの家が打ちこわされたか、ということも肥後藩では知りたいわけです。そういう情報は、この町方手先の者から入ってきています。
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