幕末の政治・情報・文化の関係について
前国立歴史民俗博物館長 宮地正人氏のご協力を得、1988年11月5日 愛知大学記念会館での講演から製作しました。
それから、各藩の情報交換と重なる問題ですが、二番目の問題としては、各藩は幕府に届けるわけです。届けないと幕府から疑われますから、届けるのは義務になっています。そうすると、その届けたものの写しを写させてくれ、という形で非常に多くの諸藩の幕府届けが肥後藩に入ってくる。一番良い例を申しますと、慶応2年6月は武州世直し一揆と同様、東邦では信達逸樹という非常に大きい世直し一揆が起こります。その一揆が起こった以上、届けなくてはいけないのですが、この慶応2年6月27日に「御城より左之通り書付沢田寿作(この人は肥後藩の城使です)持帰候事」と記されてあって、何を持ち帰ったかというと、6月23日付の板倉甲斐守届なのです。板倉甲斐守は、当時福島藩主、後に三河に移る人です。この副島藩が、信達一揆の非常に細かい報告を幕府にしている。それをそのまま肥後藩が手に入れる。これが二番目の機能です。
三番目の機能は、肥後藩のように幕府から快く思われている藩の特権だと思うのですが幕府の役人から情報をお城の中でもらってくる。これも例を挙げれば切りがありませんが一つだけ有名な例を出しますと、慶応2年10月に城中で御小人目付からもらってくるのが横浜の火事。これは横浜では有名な豚屋火事と呼ばれる大火事ですが、それはもう幕府は目付を通じてその情報を持ってくる、どの位の被害か、どういう西洋人の家が焼けたかというのは全部そのまま横流しに藩に入るという意味では、江戸城中の情報交換にはもっと注意しなければならない、と私は思っています。ただし、これはかなりオープンな情報であり、より内密な話になりますと、もう少し上手な手を使わないと情報が集まりません。より内密の幕府情報はどういう形で手に入れるのか。これは、大目付を押さえることです。肥後藩の言葉では「御用御頼み」という名をつけていますが、この「御用御頼み」の大目付をつくること。何故かと言いますと、これはご存じの通り、諸藩の届けというのは大目付を通すのです。大目付は諸藩に対する管轄をやっていますから、彼のところには非常に細かい話まで来るわけです。特に、元治元(1864)年は、関東周辺は筑波勢の問題でてんやわんやでした。これは常陸だけではなく、下野・上野・武蔵・下総でも大騒動でありました。ですから、江戸にいる全国の諸藩は筑波の動き・水戸の動きが喉から手がでる程欲しい。そして一番詳しい報告というのは、筑波勢の追討を命ぜられて出動している諸旗本と諸大名の幕府届け、これが一番詳しい。その届けがこの大目付に入る。その大目付の公用人から手紙で肥後藩に送られるのです。
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