彗星夢雑誌/古文書


幕末の政治・情報・文化の関係について

前国立歴史民俗博物館長 宮地正人氏のご協力を得、1988年11月5日 愛知大学記念会館での講演から製作しました。


 次に諸藩では、幕末にどういうふうに情報を集め、自らの政治方針を造り上げてきたかということに話を移したいと思います。
 幕末の政治史をやっていて私がかなり不満に思うことなのですが、出てくる名前は薩長土肥という、いわば京都で動いた藩の名前だけなのです。しかし、その藩以外が動いていないのかというと、全然そうではありません。あらゆる藩が必死で動いている。必死で動いているけれども、前面に出るのは明治維新を表面で遂行した薩長土肥にならざるを得ない。それだからと言って、他の藩が動いていないと言うことには全くなりません。例えば、京都周辺に近江水口藩という3万石の藩があります。ここは小藩でそれ程強くないから表面には出ないけれども、例えば第二次長州征伐のとき、長州に行く軍隊の動員を命ぜられますが非常に藩内で反対が強く、結局長州征伐を逃れる代わりに京都守護という形で一段落する。これなども外部から見ると、全然意味が分からないのですが、もう少し内側から、構造的に見ますと、内在的に理解できうるのです。こういうことは、水口藩だけではなく、全国の諸藩、あらゆるところであったことなのです。そして、それぞれの諸藩が一様に力をそそいでいたのが、情報収集ということです。ですから、私達が全国各地で色々見る風説書の多くが、やはり藩で集めた風説書です。そして今まで色々見た中で質が良いのは九州では肥後藩、東北では南部藩です。従って、ここでは肥後藩を例にお話をしてみます。
 肥後藩が一番情報を手に入れるところはどこかと言いますと、普通考えると江戸の留守居役の相互間ではないかと思われるかもしれません。留守居相互間の情報交換もかなりあるのですが、一番多くて基本的な情報源は、意外なことに、江戸城内なのです。これも説明すれば単純明快な話なのですけれども、各藩には城使というものがあります。これは、藩から幕府に届ける役、メッセンジャーです。ですから、毎日のように江戸城に行って幕府との交渉なり、届けをやらざるを得ない人がいるのです。そうすると必ずbyproductで、江戸城内での情報交換が行われます。その情報交換をしたものが非常に質のよいものです。例えば、慶応2年、幕末ぎりぎりになって、6月には関東で有名な武州一揆が発生する。武州一揆の情報は、肥後藩の場合江戸城で得ている。ですから、武州のある藩からその報告書を手に入れたのであろうと思われます。

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