大阪万博でインドネシア館の人々と親しくなった私は、インドネシア語を勉強し約1ヶ月で話せるようになりました。
就職先は総合商社の日綿実業(後にニチメンに名称変更、その後日商岩井と合併し双日に)の子会社に決まっておりましたが、インドネシア語が話せる、また本人もインドネシア駐在希望と言うことで、商社本体に入社しインドネシアでの仕事が決まりました。
そのため1971年3月から中間入社し、6月にインドネシアに赴任しました。
1年6ヶ月の駐在予定でしたが、イントネシアの仕事や生活が楽しくて、駐在延期の申請をし、2回延長しました。
1973年2月までインドネシアにおりました。勤務地は主に3カ所です、
1.北スマトラのインド洋に面したシンキルバル、ここではシンキルティバー社のカポール材検品の本船荷役アテンドなどの業務。
2.南スマトラのランポン州、ここでは2社、トリダツ社とランポンメランティ社のキャンプ地、ロックポンドでのメランティ材の検品、本船荷役アテンドなどの業務
3.西カリマンタンのポンティアナックで、カリマンタンサリ社、フータンラヤ社、アブディ社、SIS社などのジェルトン材、ジョンコン材、ラミン材の検品、本船アテンド、本船パイロット、情報収集、本船荷役などの仕事をしました。
1回の出張は平均4日から1週間ぐらいで、ジャカルタには出張の合間に骨休めの形態でした。
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