最近家庭温泉というのが流行している。市販の「湯の華」の袋を買って来て、風呂に入れると、お湯は白く濁って硫黄の匂いがぷんと鼻をつく。いかにも温泉らしいから、風呂好きの私は効果を信じて満足していた。ところが友人の薬学者の話を聞いて驚いた。彼は「湯の華というのは、有効な成分が溶けて出た後に残るカスである」と言った。
温泉の湯でとけなかったそのカスが、自宅の風呂で溶けるわけが ないではないかという。まことにもっともな正論である。それなら全く効かないかと念を押したら、溶けないカスの間に有効成分が幾らか残っているから、まあ効力は温泉の二~三割くらいだろうとの話であった。これを聞いて私は、現在通用しているインテリアの設計図は、湯の華に似たものではないかと気になり出した。本来なら設計図というものは、形や色ばかりではなく、音、光、熱、空気といった目に見えない環境要素はもちろんのこと、安全性や使いやすさ、構造と施工、さらには将来リフォームをしたときの、廃棄物処理のしやすさまでチェックされた、知恵の結晶であるべきものだ。
それなのに現状では、目に見える形の美しさと、色彩の華やかさだけが内容といったものがほとんどで、それ以外のことは考えていない図面が多い。それにもっともらしい理屈をつけて、高い値段で取引きされている面がある。とすればこれは実質効果二~三割の湯の華と同じではないかという反省である。ところで今流行の健康住宅に ついても、イメージだけが先行して、内容の伴わない欠陥住宅もあるではないかと、批判されるようになった。それが室内空気汚染の問題である。私は住宅産業の歴史は三十五年、インテリア産業の歴史は二十五年、リフォーム産業の歴史は十五年として整理できると思っている。住宅産業についていえば、その間に目標とするイメージは四回変わった。最初の住宅産業のねらいは量であった。
昭和三十年に住宅公団が誕生して団地が生まれたが、当時は戦後の住宅不足のときであったから、それをいかにして早く埋めるかが最重要の課題であった。そのためねらいは量に置かれたのである。 次の目標は質であった。量の不足が解消されるにつれて、目標は質の向上に移った。その次は快適性で、アメニティが流行語になった。 快適住宅の耳新しさが消えると、次の目標は健康になった。
そして 健康住宅の条件は高気密・高断熱で、それこそが理想の家だと、 どのメーカーも健康を高らかにうたって住宅を造って売って来たのである。ところが一昨年の夏ころから、事情は大きく変わることになった。室内空気汚染の問題が浮かびあがって来たからである。
高気密の家というのは、マホービンの中にいるのと同じではないか。 その中は内装材から揮発する化学物資で充満するし、さらに日常生活から出るもろもろのガスが加わるから、高気密の部屋はガス室の中 にいるのと同じだ。それを健康住宅と呼ぶのは欺瞞ではないか、 という批判が出てきたのである。こうした矛盾が起きたのは、 家の中に住む主人公が人間という生きものだということを忘れて、 高度工業化技術の可能性に頼り過ぎたからであった。住宅産業はこれまでに、主人公が生きものだという基本を忘れて、軌動修正を余儀なくされていたことが二回あった。最初の例はハウス55の行われた後の昭和五十七年である。ハウス55は大量生産・大量販売の技術を駆使して、よい家を作って全国にばら撒けば、庶民は幸福になるという考えが基本にあった。ところがハウス55をやってみて気がついたのは、家というのは、まず気候風土があって、それに長い生活体験が加わって生まれてきた文化の産物とでもいうべきものである。
だから地方ごとに違うのが本来の姿だ。それなのに工業化で同じ家を作って、北海道から九州までばら撒いたら、それは日本文化の破壊につながるのではないか、という反省がおこった。そのことは音楽にたとえて言うとよく分かる。名器を作ってばら撒けば、誰でも名曲が 弾けるという錯覚と同じである。どうすれば名曲が弾けるかという ソフトの研究が欠けていた。これでは雑音が出るだけで名曲は弾けない、ということにようやく気がついた。そこで「住まい文化推進運動」がおこった。つまり家の中に住む主人公はばらばらの個性を持つ人間だということを忘れていたのであった。二度目の反省は今度の高気密の家である。容れ物を作るという技術的な立場から考えれば、 高気密高断熱が理想像であるに違いない。それは省エネにも役立つからだ。だが主人公は生きものだという立場から考えれば、高気密の部屋にはガス室と同じ危険がある。この点に気づかなかったところに、 大きな落とし穴があったのである。