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    ID:
    49341
    年:
    2011
    月日:
    0104
    見出し:
    発祥の地技磨く木地師
    新聞名:
    読売新聞
    元UR(アドレス):
    http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/shiga/news/20110102-OYT8T00458.htm
    写真:
    【写真】
    記事
    材料の木材が積み上げられた工房で、高さ60センチの電動ろくろの前に座る。
    円盤状に切り出した直径約30センチの木をセットして、スイッチを入れる。
    車輪のように縦に高速回転する木の表面に、長い柄の付いた「ろくろ鉋(かんな)」の刃を当てる。
    木くずを飛び散らせて削り、くぼみを作っていく――  「以前は刃が引っ掛かって、よく木を飛ばしたもんや」  東近江市君ヶ畑町で唯一の木地師、小椋(おぐら)昭二さん(59)は顔を上げ、盆の形になった木地の仕上がり具合に視線を注ぐ  15年前、「発祥の地で200年ぶりの木地師復活」と騒がれた〈伝承者〉は、「木の最も美しいところを見せたい」という目標に向かって日々、技術を磨く    ◇  ろくろを使い、盆や椀(わん)などの木地を作る職人を「木地師」と呼ぶ。
    発祥の地とされる三重県境に近い山里・小椋庄の君ヶ畑地区。
    約1100年前、皇位継承争いに敗れた惟喬(これたか)親王が都落ちしてこの地に隠棲(いんせい)し、木地師の礎を築いたという。  周囲の山々から切り出される良質の木で盆や椀のほか菓子器、茶入れなどが数多く作られ、小椋庄は「木地師の里」として知られるように。
    多くの木地師が輩出、全国に広がったが、君ヶ畑地区では江戸後期に最後の木地師が没して以降、技術を継ぐ者は現れなかった。    ◇  小椋さんは、地区で代々続く製材所の次男に生まれた。
    18歳で家業を手伝い始めたが、1980年頃から原価の安い海外産に押されるなどし、仕事が減った。  林業をやめ、山を下りる人も増えた。
    40歳を過ぎた頃から「木に携わる物づくりをしたい。
    この地で続けるなら、木地師しかない」と思うようになった。  94年末、富山県内のろくろ作品展に足を運び、会場で、愛知県豊田市の木地師・安藤英一さん(86)を紹介された。
    95年8月、約束なしで訪ねた安藤さんの工房。
    「君ヶ畑から来たなら教えん訳にはいかん。
    でも君ヶ畑で木地師をするなら、ええ加減なことはするな」。
    いきなり、「君ヶ畑」の重みを突き付けら れた。  ろくろの使い方を教わり、その場で2時間、菓子器を作った。
    「面白くない。
    出来すぎじゃ」。
    安藤さんがぼそっと言った。
    「元々、木工をしとったし、割とスムーズに出来るもんやな、と思ったけどな」  1か月後、自宅そばにろくろ工房「君杢(きみもく)」を開き、デビュー。
    発祥の地での木地師復活にマスコミも押し掛けたが、番組収録中に木を飛ばす失敗もあった。
    現実は甘くなかった。
    発祥の地とは言え、資料はない。
    自己流に技術を磨き、試行錯誤が続いた。  「木の一番美しいところを見せる」。
    そのために、漆は塗らず、削りと磨きだけで木目の美しさや艶、滑らかさを追い求める――  デビューから1年。
    それまでにない手触りの盆が完成した。
    うれしくて、枕元に置いて一晩中触り続け、安藤さんに見せた。
    「焼き印入れて、売っていい」。
    最高の褒め言葉だった。    ◇  盆は水洗いができず、茶渋で磨く。
    時間がたてば、漆を塗ったようなあめ色になる。
    50年、60年と使え、親から子へ、子から孫へと受け継がれ、かけがえのないものになる。
    それが、小椋さん自身も教わった、盆の使い方だという。  発祥地として、君ヶ畑を木地師やお客が訪れる。
    人間国宝も立ち寄ることがある。
    「どんな風に見てるんやろか」と、ふと不安に駆られることも。
    ここで木地師を続けるのは怖い。
    だから長年、君ヶ畑で木地師が途絶えたのかもしれない fff:

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