幕末の政治・情報・文化の関係について
前国立歴史民俗博物館長 宮地正人氏のご協力を得、1988年11月5日 愛知大学記念会館での講演から製作しました。
肥後藩の情報の流れを見ますと、一つは江戸或いは江戸周辺ということがありますが、あと一つは、長崎なのです。九州諸藩は、熊本藩も含めて長崎に聞役を置いています。先程の城使と同じような性格で、メッセンジャー・ボーイ的な役割ですけれども、そのメッセンジャーというのは、長崎奉行所に対して届け、或いは指示を受ける立場なのです。こういうものを置きますと、メリットが出てくる。何故かと言いますと、幕末だけではないですけれども、日本で一番大事な情報のルートというのは江戸長崎間なのです。ですから、幕府の情報が一番速く流れる大動脈というのは、江戸・京都・大坂・長崎のラインです。いくら江戸の藩邸から熊本まで、早飛脚を出したとしても、長崎に江戸から来る幕府情報の方が速いのです。としますと、長崎に出ている熊本藩の人間は、長崎奉行所で掴んだニュースを直ぐ熊本に送るという形で、一番速く情報を掴もうとする。二番目のメリットは、オランダ通詞が長崎に居るということです。形は幕府の役人ですけれども、先程江戸の場合で申したように、非常に複雑な形で諸藩に関係を持っています。これは江戸時代の最初からあったと思われます。一例だけ申しますと、嘉永7年(1854)8月ですから、幕末の最初ですが、オランダ小通詞楢林栄七郎に関し「阿蘭陀小通詞楢林栄七郎儀、御用向(これは肥後藩に対するものです)数年格別心懸、厚出精いたし、御便利ニ相成候ニ付、五人扶持被下置候事」という文書があります。
幕府の役人であるにも拘らず、オランダ小通詞が肥後藩から五人扶持をもらっていたのです。
オランダ風説書が、全国でどうして多く出回るのか。本来は、長崎奉行所から幕府に出されるものです。従って、どこかで漏れたのです。長崎で漏れるのか、江戸で漏れるのか、或いは幕府から手に入れた諸大名から漏れるのか。幾つかの漏れ口があるのですが、一つの漏れ口の可能性は、オランダ通詞と諸藩の強い結び付きの部分にあったのではないでしょうか。
三番目のメリットは、やはり諸藩との情報交換。これは江戸城中の場の問題を言いましたが性格は同じです。長崎奉行所では、幕末、毎年大変な事件が起こりますが、大騒ぎした事件の一つとしては、文久元年(1861)対馬の芋崎をロシア艦隊が占拠した「対馬露艦占拠事件」という事件があります。この情報などは、対馬藩が長崎奉行所に届けますが、同時にその届けられた情報は肥後藩にも横流れするものでした。
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