幕末の政治・情報・文化の関係について
前国立歴史民俗博物館長 宮地正人氏のご協力を得、1988年11月5日 愛知大学記念会館での講演から製作しました。
ところで、彼の住んでいる紀州というところは太平洋岸の海運では大事なところなのです。熊野灘、或いは紀州の沖合それから播州辺りにかけては、日本の海運の拠点になっているわけですから、情報はここでも海を通じて入ってくるという問題があるわけです。
安政2年(1855)1月の彼の風説書には伊勢に漂着した中国船の話があります。この船を日本の制度では長崎に送らなければならない。送るためには、通訳がいなくてはならない。しかし、唐通詞は本来長崎に居るので、伊勢にはいないわけです。それでは、どういう人が通訳になるかというと、漢文ができる人です。そして、お医者さんは知識人で漢文は一応書けますから、漢文のできるお医者さんが中国人に付いて長崎まで送るのです。そして、送ったお医者さんが帰って来て当然、日高から熊野を経て伊勢に行きますから、そこで羽山が留めてじっくり話を聞いてみる。これは、政治情報というより中国人はどういう話をしたか、どういう詩を作ったか、まさに教養人の話がかなり多いのでけれども、そういう形での情報というのは入るのです。しかし、このような漂流者だけの話だけではなく、例えば、生麦事件の情報も彼は、江戸詰の和歌山藩邸の人ではなく、船乗から聞いています。今の御坊近辺出身の水夫が、丁度生麦事件のときに横浜にいた。そして、その現場を見た。そういう人が、横浜には西国の物資が熊野灘を通じて入りますから、当然その情報がまた紀州に戻る。そして、紀州に戻ったその船乗を拐まえ留めて、一晩語らせてその話を聞いてみる。「尤、善蔵事不計眼前見受之事」と最後に書いてありますから、やはり実際見たというように、その善蔵という水夫が話して彼が書き留めたに違いないのです。ですから、ただ外国船だけでなく、航路と情報の問題を私達はよほど注意していないと、当時の社会を理解する大切なものをみおとすことになってしまいます。下関事件の発端は、長州藩が文久3年(1863)5月10日に外国船に目掛けて砲撃したことにあります。これは、ご存じの通りです。その話も、下関に丁度泊まっていた紀州の船乗りが紀州に帰って来て、その話を聞いているのです。ですから、情報というのは、藩から下にながされてくるというイメージではなくて、むしろ下の方からちゃんと掴まえないといけないのです。
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