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大阪万博の思い出

日本万国博覧会(大阪万博)がまず最初

1970年に大阪に万国博覧会(俗に言う千里万博)が開催されました。
外国にあこがれていた私は、何度もこの博覧会を見学したいと願っていました。それにはアルバイトで働くのが一番と思い、探し始めていました。

そのようなときに 同じ大学の友人の近藤信武さんがテレビ関係の大阪東通へのアルバイトに誘ってくれました、多分1970年の2月頃だったと思います。会場へ行き説明を聞きますと仕事は「お祭り広場」の進行役でした。
開会に備えて何度か会場に行き、仕事のあとは、いろいろなパビリオンを見学したものです。
特に開会2-3日前のプレスレビューでは甲南大学の新聞部などと言っていくつかのパビリオンを見学させて いただきました。
開会式では野外劇場の自衛隊人への祝砲の合図を送る役割をしました。まだ子供のようなものでしたので このキューを出す簡単な仕事に非常に緊張し一生に一度の大事なことのように感じました。

大阪万博会期前の入場証
会期前の入場証

大阪市北区の朝日放送近くにある大阪東通という会社でアルバイトとして働き始めました。それは約2月からのことで、私の役割はお祭り広場の催物を進行することでした。当時、大阪東通は朝日放送の子会社だと聞きました。その当時、大阪東通の主な仕事はテレビの朝日放送の下請け制作でした。今思い返すと、万博のお祭り広場には大阪東通から30-40人のスタッフがいましたが、彼らはアルバイトや1年契約のスタッフで、その後の万博の同窓会でも再会することはありませんでした。

日本万国博覧会協会職員入場証
協会職員入場証

この入場証は協会職員として働く際に発行されたものです。会場への入場証(現在のIDカード)は組織や職種によって帯の色が異なり、協会職員の場合は紺色でした。この紺色の入場証は非常に便利で、どのパビリオンでも入場することができました。ただし、一般のお客様が列に並んでいる中で入場口でこれを見せて通り過ぎるのは気が引けましたので、アメリカ館への入場の際にのみ利用させていただきました。名前は大学の4年間だけに利用した戸籍名です。

万博協会駐車場利用証
協会駐車場利用証

万博会場までは、豊中市本町9丁目の自宅から通いました。電車を利用すると1時間以上かかるのですが、車なら10~15分程度で着きましたので、車通勤を選びました。それにしても、よく私のような若者に年間通しのパスを貸与してくれたものだと思います。協会は役所や民間企業から短期出向者で構成されていましたが、皆が連帯感を持っており、アルバイト出身の私にも職員並みの待遇をしてくれたのでしょう。

会期最終日のお祭り広場関係者の記念写真、このうち2名ほどプールに放り込まれたとか。 大阪市、大阪府警、住友銀行、大和銀行、朝日放送、日展、コカコーラ、日本通運、西宮市、宝塚歌劇、梅田コマ劇場、芸能界、演出家などからの出向者で成り立っていました。この中から後に大阪市の経済局長が2名(麻さん、桐山さん)、宝塚歌劇団殿堂入り( 内海さん、渡辺さん)された方が2名います。一緒に働いた仲間
インジネシア館を訪れた天皇皇后両陛下、スタッフに紛れて写真とりましたが、警備は厳重でした。

会期が始まってから約1週間ほど経った時、大阪東通から日本万国博覧会協会へ手伝いに行くように指示され、50人の仲間と共に協会に出向きました。当時、大阪東通での時給は450円でしたが、協会での勤務になると時給が400円に下がってしまいました。

出向いた1カ月の経験を終えて、大阪東通に戻る際、私は東通に戻ることは選びませんでした。私以外の人々は時給の高い大阪東通に戻りましたが、私は協会の方が時給は低いけれども面白いと思ったのです。なぜならお祭り広場の楽屋での勤務では多くの芸能人や有名人の接客も行うことがあり、それが楽しいと感じたからです。

大阪万博の同窓会 2003年

2000年の万博同窓会、ご挨拶をされる鈴木元事務総長(のちの東京都知事)。

また、協会というのは、大阪市、大阪府、警察、銀行、大手企業などから出向している方々で構成されており、将来の自分のネットワークやコネを築けると考えました。しばらくして、日本万国博覧会協会の人事担当者は、アルバイトであった私を正式な職員に採用してくださいました。ついに協会職員としての仕事が始まったのです。

お祭り広場の楽屋は非常に広大で、最大で1000人のモデルが一斉に着替えたことがあるほどでした。部屋の中では収容しきれず、廊下やロビーで一斉に着替えることもあり、目のやり場に困ることもありました。しかし、楽屋事務所は1坪もないほどの狭い場所でした。そこでは楽屋長、私(チーフという役職)、アルバイト2名の4人で楽屋業務を切り回していました。

現在は2023年ですが、トップの鈴木さん(後の都知事)を含め、多くの方々はもうこの世にいないと思います。これまでに職員全体の同窓会が開催され、迎賓館でも3回開催されましたが、もう二度と開かれないでしょう。初めて迎賓館に入るとき、みなさん胸が高鳴ったことを覚えています。迎賓館は会期中、協会がVIPを接待する場所として使用されており、会場内にあるにもかかわらず、森の中の厳重な専用道をしばらく進まなければなりませんでした。途中の警備も厳重で、一般の人々が門に近づくことも許されませんでした。私は会期中に数回、電気自動車で人々を迎賓館まで運んだことがありますが、中に入ることはありませんでした。迎賓館が1975年に民間でも利用できるようになった際、私はここで結婚式と披露宴を行いましたが、偶然とはいえ、運命的なものを感じました。

 

芸能人にも気が乗らず

万国博覧会での仕事の個人的な目標の一つは、外国の人と友達になり、言葉を覚えたいと思っていました。そのため、さまざまな人々と交流を始めました。お祭り広場で外国人パフォーマーとコミュニケーションをとるために、身振り手振りやスケッチブック(絵を描いて意思疎通をするため)を活用しました。

お祭り広場では、各国のナショナルデーが必ず1回ずつ開催されるため、2~3日に1回は外国の人々が大勢楽屋に集まります。そのような時には、日本の有名な芸能人がいても、彼らの接待に気がのらず、一般の外国人の担当者と代わってもらうこともありました。


大阪万博の同窓会 2003年

同じ会場です。 2003年の日本万国博覧会(万博)職員同窓会、スピーチするのは宝塚歌劇 殿堂入りしている渡辺先生。

最初に接触したのはチェコスロバキアの軍人の人でした。苦労しましたが挨拶言葉を覚えました。
つぎにイランの人、この人たちからはペルシャ語を教えてもらいました。そのうちに英語が一番重要と思うようになったのですが、なかなか話せるようになりません。このような時に同僚協会職員のジョージ・バックリが インドネシア人ということがわかり、言葉を少し教えてもらいました。その覚えた言葉をインドネシア館で使いましたら、 相手はたいそう喜んでくれました。そこからインドネシア館との付き合いが始まるのです。
ちなみに当時の日本の芸能界で接待した方は島倉千代子さん、由美かおるさん、加茂さくらさん、辺見マリさん、天知総子さんなどです。島倉千代子さんは上司の楽屋長が元マネージャーだったので、よく楽屋にこられ、何度もお会いしました。

 

 

イントネシアのホステスは美人ぞろい

当時、インドネシア館では延べ200名のインドネシア人が関与し、常時100名近くの人が在籍していました。そのため、さまざまな人々との交流の機会が多く、ホステス(現代ではコンパニオンと呼ばれます)、踊り子、歌手の女性たちは非常に美しい方々で、彼女たちに近づくことで言語を学びたいと思いました。言葉を学びたい旨伝えると、どの人も親切に教えてくれました。その中で面白さを感じ、本格的に勉強を始めました。インドネシア語の本を購入しましたが、これは全く役に立ちませんでした。彼らの日常の会話と教科書の内容がまったく異なっていたため、これはまるで大阪弁と江戸時代の日本語の違いのようでした。

私が教科書を読むと、彼らは笑い転げました。そこで考え、協会から最初に受け取った給料でカセットテープレコーダーを購入しました。当時ではかなり高価で、給料の半分くらいだったと思います。一人のホステスに、わかりやすい表現や会話を20分ほど話してもらい、それを録音しました。以降、食事中、トイレ、入浴、車の運転、寝る前など、仕事以外の時間はすべて、イヤホンで録音されたインドネシア語を聞いて過ごしました。すると、約1カ月後、自分からインドネシア語が流暢に出てくるようになり、簡単な会話ができるようになりました。それからは、会期中、毎日インドネシア館に入り浸りました。

もちろん、お祭り広場の仕事もきちんとこなしました。後で聞いた話によると、上司たちは私について、「インドネシア館に毎日入り浸り、彼女でもできているのと違うか、でも仕事はしっかりとこなし、よく働くから、大目に見てやろうか」と話していたそうです。

自宅で何度もパーテイを開く

その内にたくさんの友人ができてきました。あるときホステスのティティさんとティニさんとを 自宅に招待したところ、大変よろんでもらい、ことあるごとにインドネシア館の人を自宅に招待しました。母親はいつも一生懸命に接待接遇してくれました。述べ人数で百人は超えたでしょうか。

インドネシア館でサヨナラパーテイがありました。
会期最後の日はあちこちのパビリオンでサヨナラパーティがあり、ティティさんからインドネシア館に来るよう 強い誘いがありました。仕事が終わってすぐに行きましたら、パーティはほぼ終わりかけで 最後の表彰をするというのです。大所帯のインドネシアパピリオンの人たちから何人かが呼ばれ 表彰を受け始めました。
そのとき議長がオニイチャンと呼ぶではありませんか。私の名前はインドネシア館ではオニイで 通っていましたので、びっくりしました。まわりのホステスさんから早く前に出なさいと 催促をうけ表彰台に上がったのでした。確か全員で八名ぐらい選ばれ、日本人で三名選ばれましたが 私だけが部外者でした。表彰された内容は、毎日よくインドネシア館に来てみんなと友人になり、インドネシア語を覚えた、というような内容でした。
その時は甲南大学の4年回生で卓球部の最終年度でした。卓球部で一番楽ができるときでしたが、 クラブを止めて、万博でアルバイトをしてたよかったと本当にも思いました。
この時のインドネシア館の関係者で友人知人になった方の写真をスキャンして掲載しました。カラー白黒とも。

その後の協会職員としての仕事は協会業務の残務整理などがあり、翌年の1月ころまで努めたと思います。会場の解体は非常に寂しいものがありました。

そのうちに多くの友人ができました。ある日、ホステスのティティさんとティニさんを自宅に招待し、大いに楽しんでもらいました。その後も、何度もインドネシア館の関係者を自宅に招待しました。母親はいつも熱心におもてなしをしてくれました。そのため、延べ人数で100人以上の人々が自宅に訪れたことでしょう。

インドネシア館でサヨナラパーティが開催されました。会期最終日には、さまざまなパビリオンでサヨナラパーティが催され、ティティさんからは特に力強くインドネシア館に来るように誘われました。仕事を終えてすぐに会場へ行きましたが、パーティはほぼ終了し、最後の表彰式が行われていました。大所帯のインドネシアパビリオンのメンバーから何人かが呼ばれ、表彰を受け始めました。その際、議長が「オニイチャン」と呼びました。インドネシア館では私の名前が「オニイ」と通っていたため、私は驚きました。ホステスたちから前に出るように促され、表彰台に上がりました。確か、八人ほどが選ばれ、その中には日本人が三人いましたが、私は唯一の外部の人間でした。表彰内容は、インドネシア館に毎日通い、皆と友達になり、インドネシア語を学んだというものでした。

その当時、私は甲南大学の4年生で卓球部の最終年度でした。卓球部で一番楽しい時期でありながら、クラブを辞めて万博でアルバイトをしていたことが本当に良かったと感じました。

この時のインドネシア館の関係者で友人知人になった方の写真をスキャンして掲載しました。カラー白黒とも。

その後、協会職員としての仕事では協会業務の残務整理などがあり、翌年の1月ごろまで働きました。会場の解体は非常に寂しいものがありました。

 

東南アジア視察旅行

万博終了後の年末に近く、熱帯林業協会主催の東南アジア視察旅行がありました。
父が今後アジアの木材を輸入する時代だからとその旅行に参加をきめ、通訳に私を同行させたのです。
私の会話はインドネシア館で通じても、現地では通じないのではと心配でしたが、友人に再開できるので 喜んで同行しました。
フィリピン、インドネシア、シンガポール、マレーシア、タイと強行スケジュールでしたが、 インドネシアで二泊しましたが、会話は問題なく通じました。
その旅行が楽しかったものですから、またインドネシアに行きたいと思うようになり、 翌年就職がニチメンの子会社決まっていましたが、私のインドネシアで働きたい希望が ニチメンの本部の方に届き、急遽三月からニチメンに中間入社しました。
六月まで大阪で貿易実務の勉強や名古屋の合板工場の勉強などをしてインドネシアへいったのです。

万博終了後、年末に近づいた頃、熱帯林業協会主催の東南アジア視察旅行がありました。父は将来アジアの木材を輸入する時代が訪れると考え、その旅行に参加を決意し、通訳として私を同行させました。私はインドネシア館での会話は通じていても、現地では通じないのではないかと心配しましたが、友人たちと再会できることを楽しみにして同行しました。

この旅行ではフィリピン、インドネシア、シンガポール、マレーシア、タイといった国々を強行スケジュールで巡りました。インドネシアでは二泊しましたが、言葉の壁はなく、スムーズにコミュニケーションが取れました。この旅行が非常に楽しいものだったため、再びインドネシアに行く機会を待ち望むようになりました。

翌年、私は就職がニチメンの子会社に内定していましたが、私のインドネシアで働きたいという希望がニチメンの本部に届き、急遽3月からニチメンに中途入社することになりました。入社してから6月まで大阪で貿易実務や名古屋の合板工場での勉強を行い、その後インドネシアに渡りました。

 

着いた翌日から一人で歩きまわる

ジャカルタに到着して翌日が日曜日だったので、友人たちの家を訪れて回りました。これにはニチメンの先輩方も驚かれました。

しばらくして、困ったことが起こりました。当時、新たな駐在員はインドネシア語ができないため、ジャカルタに到着すると言葉を学ぶための先生について勉強するのです。ほとんど個人レッスンです。私も先輩と一緒に行ったのですが、その先生は英語でインドネシア語を教えてます。私は先生のインドネシア語は理解できるのですが、英語が理解できなかったため、ほとんど学ぶことができませんでした。この話を会社の人たちに伝えると、大笑いされました。

結局、2、3回のレッスンだけで終わりました。先生は独身で美しい女性のオニイ先生でした。もう少し親しくなりたかったと思い、残念でした。

インドネシアでの生活

ほんとうに危険な瞬間も何度か経験しましたが、基本的には楽しくて充実した2年間でした。1年に1度は帰国できる機会がありましたが、帰国の希望はほとんど持たず、現地に滞在しました。日本に帰りたいと思ったこともありましたが、これはホームシックではなく、生活用品などの物資を購入し、すぐにインドネシアに戻りたいという思いでした。

当時、インドネシア唯一の百貨店であるサリナテパートでも陳列品がまばらで、共産圏の国のように感じました。欲しいものは石鹸、歯ブラシ、タオル、シャツ、ズボン、ジャンパー、雑誌など、普通の日常品です。LUXやCAMAYなどの香りが強い石鹸には閉口しました。日本の牛乳石鹸に憧れていました。

別ページに商社勤務のインドネシア時代1971年から1973年までの写真をスキャンしてupしました。

その後の交流・お付き合い

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