日本は先の大戦で敗れて亡国の一歩手前まで墜ちた。そのどん底から立ちあがって列強に追いつくために、高度工業化の国になることを目標とした。政治も産業も教育もすべてその目標に向かって、ただがむしゃらに突き進んで来た。そのため工学的な発想が身についた。材料を例に取るなら、木綿や木のような天然の素材はもはや時代遅れで、間もなく不要のものになる。新しい人工材料こそが敗戦国日本を救うものだと、堅く信じて来たのであった。私が学生のころは耳にタコができるほどその話を繰り返し開かされた。
ところが二十世紀も終わりに近づいたこの十数年になって、急に「自然にやさしく」とか、「環境共生」とかいった百八十度方向変換した言葉が流行するようになった。そして「二十世紀は機械文明の時代であったが、ニ十一世紀は生物文明の時代になる」 という予言さえも聞かれるように変わって来た。
恐らく現在はその曲がり角にさしかかっているのであろう。環境共生住宅はその方向変換の中から生まれてきたものだが、外界から隔離しようとする高気密住宅が、どのように環境共生と結びつくのか、私にはよく理解できないものがある。
最近の住宅は重装備になって来た。もろもろの設備機器を備えた高気密住宅は、一種の精密機械といってよかろう。機械を買うと詳しい取扱い説明書が付いているが、健康住宅にはそれがない。高気密が理想といわれても、どういう時にどれだけの量の換気をすればよいのか分からない。汚れた空気を吐き出す前に、全体をよく攪拌しなければならないはずだが、どうすればそれに合うかという運転マニュアルがない。それでもマンションならなんとか運転方法を想像できるが、戸建て木造の二階建住宅では、もはやお手あげであろう。
私が思うに、本来の高気密の家というのは、夏の暑い時と冬の寒い時には閉め切って換気扇を回わすが、春と秋の季候のよい季節には、窓を開放して、パッシブソーラーで空気調整を行うものだろうと思う。だが高気密の家を買った人の中には、年じゅう家を閉め切って、気密効果をあげるものだと思っている人もいるらしい。機械も家も同じで、正しい運転をしないと却って害がある。そのあたりの説明が十分でないように、私は思うのである。