彗星夢雑誌/古文書

「彗星夢雑誌」を説く

雑賀貞次郎


 さらに彗星夢雑誌に書き留めている各方面の書牘、情報書を翁の許に寄せ又は回覧に供した人々、詰り夢雑誌の材料の供給者でありグループとも見られる顔ぶれを、一応お話する要があらう。
 (イ)夢雑誌の全編を通じて最も多く見られるのは菊池海荘から瀬見善水、小池檪亭に宛た書簡と、江戸京、浪花其他から海荘の許へ届いた時事を報ずる書面である。これらはいづれも善水のところから翁の許へ回送してきている。この海荘の許へ来た情報は浪花の柏岡、樋口其他なかなか多方面である。 (ロ)次ぎは瀬見善水の許へ海荘以外から届いた情報を翁の許へ回送してきたもの及び善水自からの見聞や意見を寄せて来たもの。又小池櫟亭から回送してきたもの
 (ハ)翁の許に浪花、若山、江戸その他から寄せてきた書信、殊に初期には澤井峻蔵から多く来ている。又、翁自からの見聞を録したのも少くない。これらも書き留めると共に善水や海荘へも回覧したと思はれる。
 夢雑誌の総体からいへば以上の外に太政官日誌や初期の各新聞の抄録や志士の詩歌、書冊の写などもあるが、とにかくこのイ、ロ、ハがその大部分をなすものであり主要のものであります。第十八編上巻の翁の書入れでも察せられるが、常時海荘を中心として善水、櫟亭らは各地から書信を得るか又は新らしい見聞をうる毎に、直夫その他の便を利用して順次これを回覧、報知するを例とし、相連絡して時代の推移に遅れぬやうにしたらしい。而してそれぞれの地方には又それらの人を中心とした周囲があつたであらう。こゝで、ちよつとそれらの主な人々を一瞥しませう菊池海荘は名を保定、字を子固、通称孫輔、渓琴と号し後ち海荘と改む。有田郡栖原の豪富で漢詩人としても盛名があり、幕末には志を勤王の大義に抱き海防その他に奔走し又朝廷に建白するところあり、当時紀州における一存在で、明治十四年八十三歳を以て没し昭和御即位大典の際正四位を贈られた。海荘は江戸に設置している自家の店舗の交渉と、豪富の資力と各方面に広き交友とを以て京摂、浪花、江戸その他の形勢、出来事等の通信を得るにつとめ、自から明治維新にいたる変遷を観望したもので、それらの通信は連日殆んど絶ゆることなく、しかも迅速でもあつた。当時全国でかうした試みは大は各藩から商人にいたるまで相当多かつたであらうが、その中でも海荘ほど盛んに行うたものは少いであらう。収録中に「栖原より」「海荘翁より」「海翁より」等のもの、浪花の樋口、恕堂、江戸海荘店より等とある書信は悉く海荘から善水又は櫟亭へ回覧し、翁の許へ転送されてきたもので、それらが驚くほど多いのである。海荘はこれによりて自から時代に遅れぬようにしたばかりでなく、有田における自己の周囲は勿論、日高における新懇の善水らにもこれらの書信を覧せしめたのであつて、こうした方面でも当時の主要人物であることが察せられ、各雑誌の資料供給の第一人者です。瀬見善水は通称雄次郎、後ち彦左衛門と改め晩年は善水を通称とした。号は善水別に翠湾、山静居と号し家の名を三香之舎といふ。日高郡江川組の大庄屋で酒造を業とし、柿園門下の歌人で伊達千廣らと交遊した。維新後日高郡民政知局事、和歌山藩少参事、神奈川県権大属、県会議員等となり明治二十五年寿七十を以て逝く、当時日高における代表的人物であつた。この善水は海荘から来た通信を悉く翁の許に回送したばかりでなく、その他から来たものおよび自己の見聞や感想をも書き送っています。夢雑誌の記録では海荘に次ぐ重要な地位を占めます。小池櫟亭(園とも)は善水の実弟、通称甚七、後ち矩平といふ、和歌をよくし、大阪の佐々木春夫(柿園門、勤王家贈正四位)と交遊あり、春夫から少からず書信を得ていることが夢雑誌に録されています。由良守應は通称弥太次、日高郡由良の人、一日数十里を行く疾足を以て如られ、海荘らのためにシバシば京摂と紀州を往復して自から見聞するところを報じ又書信を運び又紀藩の諜報係ともなつだ。維新後、岩倉卿に従うて欧米を巡遊し帰朝して皇室の馬車を監督し正七位に叙せられ、辞して東京宇都宮間の乗合馬車を創始し千里軒といふ、明治二十七年没す年六十八、義渓は消息の連絡に最も力あつたであらう。序でに書き加へますが、海荘翁への報告中、浪花よりのものに恕堂、樋口よりのもの多いが、恕堂は柏岡氏天満与力であり、樋口彦右衛門は商人で維新後市政参与を命ぜられています。共にその伝は明かでないが相当の門地にあり、大阪の風雲を観望し形勢を推察するに、便宜の地位にあつた人であらうは略ぼ推察がつきます。
 その他にもまだまだ沢山の人々があるが一々は挙げきれません。それで以上で夢雑誌の成つた環境を御推知ありたい。
 しかし、翁自から得たところのものも大きな役割を演じています。乃ち夢雑誌の初期には澤井峻蔵が浪花及び江戸からシバシば詳しい情報や外国使節の幕吏への国際事情の説明とか條約の全文などを寄せているか、峻蔵は日高郡切目の医澤井又玄の子で浪花の緒方塾に学び後ち江戸の竹内元周の塾に転じ秀才として知られ、翁は己れの養嗣とすべく望を嘱していたが若うして江戸に没したといふ。もし峻蔵がずつと生存していれば夢雑誌の上に更に大きな役割を演じていたであらう。翁は、後ちには薩の藩医熊本道可をはじめあらゆる方面に手をのばして情報を集めているばかりでなく、日高近海の帆船の乗組員が瀬戸内海や江戸方面の航海から帰浦するたびに、各地での見聞談を求めたり、龍神温泉に湯治中同宿客の話を録したり、長州役在夫の帰来談を聞いだり、日高地方から大和、山城方面へ出稼ぎする鍛冶工の縁者から出稼地の模様を尋ねたり、甚しいのは商用で来訪した他地の楽屋の話、同じく針売の話、診察した旅の尼僧の話まで書き留め、かつ風水害等のをりは詳しく被害等の記録を作つています。思ふにこれらは両三通づゝ書いて回覧したものでせう。
 夢雑誌はこの時代と、この環境と、この熱心と、この筆まめが作つたものです。

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