「彗星夢雑誌」を説く
雑賀貞次郎
二
彗星夢雑誌の各編の内容を申し上げるのには総目録を挙げるのがいゝと存じますが、それではかなり長くなりますから、爰にほんの要点だけを記すことに致し旁ら紀州関係の事柄は気付いたゞけ書き添へませう。
初編(上巻六十五枚、中巻七十八枚、下巻六十五枚)上巻は初めに序文と彗星図(以上九枚だけ白の半紙)があり、序文には嘉永六癸丑年七月中旬頃から日々黄昏酉下刻から西北戌亥のあたりに彗星出て南東の方へさすこと凡そ四五尺にして暫時にして西山に没すといふことを書き嘉永六年秋七月としてある。これによるとこの初編第一巻がまづ成りこれを続けて行こうと思ふてこの序文をものにしたらしい。さて以上の次ぎに彗星考として漢書の彗星のことを抄出して
今上皇帝御製(孝明天皇)
白浪のよしよするとも土にかあらむわが秋津州は神風ぞふく
を掲げています。恐らく翁の国体に対する感念をこれによつて示しているものかと存ぜられます。その後は殆ど米艦の浦賀入港のことのみを録しています。中巻は主として米国の沿革、国情と同国書の漢訳、和訳で、下巻は米国使節のことゝ北海守備のことを書いています。この下巻の初めに、「嘉永七寅年正月六日の彗星のことを書いているので、翁がこの巻の筆をとつた頃が知られます。
第二編(上巻七十枚、中巻五十五枚、下巻八十四枚半)上巻には露艦が大阪、長崎へ入港したこと、大阪に於けるその警備が記され、紀州加太沖で紀藩士が露艦を訪ふて問答したことが録されています、これは問答の内容と露語も記していて応接の真相を知る珍しい資料です、又紀藩伊勢田丸領への支那の商船が漂着して、古座の医玉川■齋がこれと筆談し遭難者を長崎に送り届けたが、■齋の書いた支那人との問答を悉く録している。この通訳は■齋伝に特筆するところであるが、その問答がどんなものであつたかはこれによると明瞭です。又アイヌ語も録しています。中巻は安政の紀州各地々震海嘯の被害を聞くに従うて録したもので下巻は池内泰時の擾夷論、幕府の辞令と海中噺(魚類の話に託して時事を諷したもの)狂歌、諸侯旗下役者見立評判、枕草子抜文句、遠方より珍客渡米に付馳走献立など当時読み売りや戯作の伝称されたものを写て収めていますがこれらは当時の情勢を知る資料でせう。第三編(上巻七十三枚、中巻三十六枚、下巻五十五枚)上巻は高野長英の戌辰夢物語 十一枚 同夢々物語 十九枚 作者不知の夢多可記 三十八枚 を韓賈姜譲標客於英夷而寄故舊書を収めています、このうち夢々物語は翁の手跡でない、察するに他からおくられたのをそのまゝ綴つたのでありませう。中巻は梵鐘で大砲鋳造の官符、神官奉幣、水戸侯の琵琶進献などあり熊野三山へ擾夷祈願のこともありますが、この三山祈願の祝詞は加納諸平の作で才人の文藻溢るゝものがあります。下巻は松平越中守の擾夷説、大槻平次の同献策、吉田松蔭の急務策、廣瀬旭荘の小識論を収めています。内ち小識論は翁の手跡でありませぬ。
第四編(上巻五十五枚、中巻七十二枚、下巻五十九枚)上巻はアメリカ使節の江戸城を訪ふ前後のことを主として記し中に当時の一枚刷?であらう木版刷のペルリ、通弁官、献上物等の書を切り抜いて貼付けていますがその書は想像で描いたもので服装など多量に古代の支那式を加味しているのが面白く感じます。中巻は安政四年十月米使節と幕吏との応答、同十二月米使節書簡の和訳を収めています。うち堀田備中守邸での米使節の談話は翁の筆跡でなく杏花堂の罫紙をも用ひていない、江戸在住の医生澤井峻蔵から書き送つてきたのを其まゝ綴ぢこんだものと見えます。次ぎに蕃書調書で土岐丹波守らとの対話の写は三十二枚にのぼるが終りに「杏花堂羽山誌、安政五年午二月廿三日瀬見善水子より被恵同夜燈下書」とあつて筆録した日が明かです。下巻は安政四年十二月十二三四の三日間米使節と幕吏との応接問翁の筆記で目次のほかは翁の筆跡でなく、奥に翁の筆跡で「安政五年午二月五日東部麹町三軒屋竹内元周塾澤井峻蔵より投書」とあります 翁の筆跡でない分前の堀田備中邸の問答と同筆跡です。 因みに元周は紀州藩医、澤井は別記の通り翁の親近者です。
第五編(上巻四十枚半、中巻四十六枚半、下巻二十一枚)上巻は米国、露国との通商条約文、中巻は英国仏国との同條約文で表紙の見かへしに「安政六未九月十二日於燈下写、杏花堂羽山蕃」とあります。下巻はオランダ国との同條約文です。
第六編(上巻七十七枚、中巻八十三枚、下巻六十四枚)上巻は堀田備中守、林大学頭ら上洛前後のこと、通商仮條約に対する宮家公卿の建白文の写などを収めてをり、中巻は水戸齋昭から応司卿に贈った書簡をはじめ公卿の上書その他の建白、京都の風説、紀伊侯の将軍となりしことなどを録し、且つ考加として嘉永六年六月以降の推移の概要を記しています。第二十五葉目の米国のハルリス派遣のアグレマンに対する幕府の回答と堀田備中守の辞令などを記した終りに「右二通安政五年午六月五日菊池保定子より瀬見善水子へ贈来同氏より即日到来写之」また諸侯方へ被仰渡の写しの末に「此書岡田元達より借受写、安積周輔子より安政五年午七月三日早飛脚を以被申越」と書いていて、筆録した年月を明瞭にしています。下巻は水戸家の勅諚のことゝ安政獄の始末を記しています。
第七編(上巻六十三枚、中巻六十八枚、下巻七十七枚)上巻は桜田変の各方面からの報告を集めたものと佐野竹之介の鬼退治存意書の写、中巻は桜田変の森五六郎の物語、浪士の処分、時事のチヨンガレぶしなど下巻は細川家士物語と高橋多一郎の最後を書いています。
第八編(上巻五十六枚、中巻六十一枚、下巻六十七枚)上巻は情人羅森の続日本遊記と題する下田紀行、これは恐らく邦人の偽作かも知れぬが当時の下田の風俗を知るによきものとヒユスケン事件、江戸の外人宿泊寺院と警固など、中巻は対馬における露艦侵略の報告、東禅寺夜討、江戸風説などのニュースを収めてをり、目次の終り記事の初めに「文久元年酉四月二十三日」とあります。下巻は安藤対馬守要撃、寺田屋騒動の風説などゝ文久二年の武艦の写を収めています。
第九編(中巻六十枚、上下両巻欠)他の各編と同じく上中下の三巻揃ふていたものと思はれますし、総目録には三巻の各目次も記されていますが、しかし上、下の二巻は今は存しない。中巻は文久二年八月幕府の服制改革、諸侯参勤割合、嶋津家々来の禄高などを録しています。ところで総目録によりますと以上中巻所収のものは上巻の目録として記されているのです。夢雑誌三十八編百十五巻のうち総目録で目次と巻と相違するのはこれだけです。その点でこの欠巻は考察の要があるのでは無いかと存じます。南方熊楠先生は「此雑誌は紙を一定の厚さに綴たものへ写し入れたに非ずして一枚々々別々の紙へ書きつけ扨てヨイ加減に写し集まるを待ち思ひのまゝの厚きに綴たることにて上中下三巻の分を写し写しおきたるに、失はれた二巻は汚れたとか焼けたとかにて綴ぢぬ内に失ひ了り其内ち再び補充すべしと心懸けをりながら材料散失してとうとう再写を得ずに空しく目録のみ残つたのであらう」と言はれている。何にしても惜しいことです。
第十編(上巻五十五枚、中巻六十一枚、下巻五十五枚)上巻は擾夷の勅旨、加茂行幸、岩清水へ勅使、青蓮院官還俗内意、足利将軍木像の泉首、賀川肇らの暗殺など文久元年末から同三年春までのニュースを収めていますが、紀州藩の海防や和歌山に泉首の作りものがあつたことなども記されてをり、殊に日高郡北塩屋村の船夫が隅ま神奈川にいて生麦事件を見物した話を翁が親しく聞いて第三十四葉から同三十九葉までにこれを記し、その終りに「閨八月五日夜咄し、杏花園において」と書いていますのは注意されます。中巻は井伊安藤らの追罰、水戸へ再勅旨など文久二年冬から同三年へかけてのニュースです。下巻は擾夷論の異変、外艦の長州攻撃など大体文久三年のニュース集ですが、中に紀藩の種痘奨励のことや新宮、田辺両藩の上ヶ知のことなどもあります。
第十一編(上巻四十二枚半、中巻四十六枚、下巻四十八枚)上巻は津山侯の建白(文久二年三月)日本橋の風諫状(同三年八月)長阪蒼峰の上書(同元年十一月)の写を収めています。而して蒼峰のには酉十一月とあるけれども戌十一月か亥年の春過ぎの作であらうと附記し、その終りに「干時文久三亥臘月季の六日、杏花園のあるじ誌ス」と書いています。中巻は新見豊前守一行の渡米日記、北條竹潭の同上詩、根立助七郎一行の渡支日記等を収めてをり、下巻は中外新報からの抜き書、将軍参内の式、文久三年四月将軍石清水参拝の節頂戴の太刀のことなどを記していますが、中外紙抜き書の終りに「文久二年戌五月写之、杏花堂誌」とあります。
第十二編(上巻四十六巻、中巻三十五巻、下巻四十枚)上巻は仏艦の長州、英艦の鹿児島砲撃のこと、中巻は慶喜公の建白、嶋津久光の上京、越前春岳の異説高台寺焼討、姉小路卿らの暗殺などのニュース、下巻は京都の商人らの暗殺、丁字屋某の献金、龍神温泉で浴客から聴いた話、泉州瀧畑の敵打などのニュースを録しています。うち丁字屋献金のことを記した三香舎の書信の写の後に「寺干文久三亥八月一日、思ふ事汲て叶ふる神の山に住、隠者誌す」と翁の筆で書いていますが、これは翁が龍神温泉に浴遊のをり書いたのではないかと思はれます。さらに龍神で浴客から聴いた話を書いた末に「右亥八月十三日山地組龍神村於温泉場豆腐屋楼上写、瀬見三香舎へ贈る、蕃齋」とあります。瀧畑の仇討は土藩士が紀州で逃亡中の仇を発見し勝海舟の計ひを紀藩の好意で仇を討つ珍らしい話であります。
第十三編(上巻四十八枚、中巻四十六枚、下巻四十三枚)上巻は大和御幸の勅文のほかは悉く天誅組に関することを記していますが、翁が文久三年八月上旬龍神温泉に遊浴中同宿し懇意になつた大和五條の荒物商松屋又兵衛が同月十五日龍神を出発して五條に帰つたが、龍神で雇入れた荷持人夫の帰るに際し天誅組の建札、掲示の写および五條の模様を認めて翁の許へ寄せているのをはじめ各方面の通信を集めています。中巻は主として龍神温泉方面で得た天誅組の情報、同方面の情勢、大和に出稼ぎしていた山路方面の松煙焚きらの帰来談を集めてをり、龍神の小又川に面縛して出た水郡らのことも詳しく記されています。下巻は尾鷲、新宮方面の天誅組警備と動揺ぶり、それから十津川事情を記しています。
第十四編(上巻四十六枚、中巻三十七枚、下巻四十四枚)上巻は文久三年八月から同四年九月までの大和行幸、七卿落ち、長州の嘆願と上書、忍海暗殺など、中巻は文久二年十二月から同四年九月までの長州侯の上書、同藩中への教示、薩長土の上書のことなどを録し、下巻は伴林光平の南山踏雲録の写しでこれは元治元年に瀬見善水が考校して朱を加へています。
第十五編(上巻四十一枚、中巻四十二枚、下巻四十五枚半)上巻は文久三年十月から元治改元までの聞のニュースで生野騒動の通信もあります。中巻は生野義挙の詳報と丹州夢物語その他からの抄録。下巻は生野の落着と元治の京都、江戸の情況などであります。
第十六編(上巻四十枚、中巻四十三枚、下巻四十五枚)上巻は文久四年正月の御震簡、将軍家茂の御請書因州侯、黒田侯世子の建白等の写、中巻は元治元年二月の勅旨、長州、龍野、加藤翁らの建白、尾張老公の献言、古高俊次郎のことなど、下巻は嶋津三郎に関する京洛の張紙、貿易商人の殺害などを録しています。そして南紀田辺の張紙のことが出ているのは珍らしい
第十七編(上巻五十四枚、中巻四十三枚、下巻五十六枚)上巻は象山の遭難、長藩士の伏見集中、浪花の状況などを主として元治元年七八月の交の京摂の情況。中巻は蛤御門城の最初の報知や公卿らの進退。下巻は蛤御門戦と長藩士の敗走を記していますが、中に南紀岩田の中野屋清七が洛で同戦争に出逢ふて見物して歩いた話があります。
第十八編(上巻五十一枚、中巻三十四枚、下巻四十八枚)上巻は水戸小川館の檄文、天狗党の行動に関する石橋宿その他の注進、水戸浪士の伊勢参宮等のことを記していますが、終りの海荘から善水、櫟園(園とも亭ともいふ)両人宛の書信を写した末に「右元治元子八月五日夜酉刻直使にて申来り即刻大阪来信は写し六日朝櫟亭へ廻す同人より栖原へ返却いたし候様申遺し候菊翁へは此方より右飛脚へ報酬出し候事のよし三香舎より六日七ツ比御用飛脚次兵衛へ托し到来夜中写し取日高園へ七日朝廻す、杏花園主人」とありまして直夫、飛脚を使用して同志へ回覧、それも成るべく早からんことに努めた模様が察せられ、夢雑誌の成立を知る上にありがたい文字と存じます。中巻は弘道館の書附、筑波山浪士の姓名、銚子附近の戦など、下巻は水戸浪士の敦賀における最後、水戸における烈士の所分などを記しています。
第十九編(上巻四十六枚、中巻五十枚、下巻六十五枚)上巻は長州征伐の書附、紀公の上書、下ノ関戦など、中巻は長征軍の大阪入り、長藩士の千日前泉首、尾州公の動静など、下巻は長藩三家老の首実検、征長軍の引揚げ、由良義渓の幽囚などを記していますが中に紀藩の富田氏が尾藩に加勢して芸州に下り戦はずして凱旋し多くの仕合をえ大珍談も出ています。
第二十編(上巻四十二枚、中巻四十七枚、下巻五十三枚)上巻は慶應元年五月から八月までの江戸および京摂の風説、落首などを録していますが、中に六月十一、二、三日の三日間毎夜大白星の常と異る現象を翁自から観測した記述と、江戸で木の実が降つたことを報じたのが収められてあり、また紀藩の伊達五郎、岩橋徹輔らの捕へられたことも書かれています。中巻は慶應元年二月頃から五六月ごろまでの出来ごとや風説を書き、外国貨幣の図を収めています。下巻は長藩再征の幕府の軍令、紀藩の陣立等を書いていますが、目次の終りのところに「慶應元年乙丑六月写之、葉屋満うぢ所持」と記しています。
第二十一編(上巻四十枚、中巻五十一枚、下巻四十四枚)上巻は長州再征軍の大阪滞留を中心とし、その前後の諸方面の動き及び外舶の大阪入りなどの通信。中巻は兵庫開港の交渉や仏提督の要求を記し、終りに門脇重綾の中興元勲(名和長年公のことを記したもの)昌谷碩の備後三郎高徳将軍肖像記、藤田東湖の正気歌等の写を収め、下巻は膳所藩士の所刑、黒田侯家来の五卿関係者の所置、長州再討軍の浪花進発など大体慶應元年十月ごろから翌二年春までの出来事を書いている。
第二十二編(上巻四十一枚、中巻四十六枚、下巻三十五枚)上巻は紀公の征長総督、防府討入大小名割、安藤侯の出陣、奇兵隊の書牘など、中巻は大阪の米高京師西国の風説、流行唄など慶應元年十月ごろから翌二年春までの出来ごとを記し、中に柏木兵衛の書簡などもある。下巻は慶應二年三月から五六月ころまでの各地の形勢、薩土両藩士の京師屯集、常州の騒動等を報じた書信を収めています。
第二十三編(上巻五十枚、中巻三十九枚、下巻三十八枚)上巻は長藩家老完戸備後之介、実は奇兵隊の山県狂介が芸州で幕府に提出した書附乃ち幕府の対長処置を反駁抗議したものゝ全文、完戸の贋物説など長州の事柄を主として収めてあり、中巻は浪士の倉敷襲撃和歌山の火薬の賊、浪花土佐稲荷の正遷宮など、下巻は兵庫浪花の百姓一揆、紀藩向笠氏の切腹などを書いています。
第二十四編(上巻四十九枚、中巻四十八枚、下巻四十六枚)上巻は主として長州役に関する雑信でありますが、紀藩の従軍者の家郷への書信など面白いものがあります。中巻は小倉の戦争、紀南から征長に従軍の在夫の帰来談、慶應二年六月二十四日の天火のこと、神崎渡しの珍談などがあり、下巻は山口、萩の警備人数、石州方面の戦況、安藤侯の敗走の報などを収めています。
第二十五編(上巻五十三枚、中巻四十九枚、下巻五十三枚)上巻は紀州公の征長総督辞表など長州役に関する雑聞と、慶應二年八月七日の大風雨の記事を収めていますが、この大風雨の記述は翁が見聞を綴つたもので日高地方の災害史の貴重な資料です。中巻は慶應二年八月一橋公の奏上文、同将軍襲職のこと、および紀州の長征従軍在夫の帰来談などを収めていますが、在夫といふのは農村から徴発されて雑卒の役を課せられたものゝことで、その歯きぬ着せぬ帰来談は紀兵の実状を暴露しています。下巻は中智万太郎の出発日記紀藩中野喜内ら長州へ生捕となり釈放されし報告、大阪城濠の山椒魚のことなどを収めています。
第二十六編(上巻四十枚、中巻四十二枚、下巻四十七枚)上巻は慶應二年秋から冬へかけての出来ごと、京師における薩会の風評、江戸の窮人騒動その他の通信で、田辺藩の論功もある。中巻は同じく慶應二年秋冬のニュースで薩州侯および堂上連名の建白、小倉没落等の雑聞。下巻は浪士十津川へ入込説、紀州の五国通用札其他慶應二年冬から翌三年春までの紀藩関係の雑説と征長軍の解兵や京阪の情報やを収めている。
第二十七編(上巻四十枚、中巻四十二枚、下巻五十一枚)上巻は西欧諸国の対日策を協議の回章、外人の大阪逗留、小栗総州邸の刺客、孝明天皇御葬列の写など。中巻は外人の大阪城謁見、天王寺の鐘供養、力士雲龍禍難説、紀州黒江名手由の強盗など、慶應三年春の出来こと、下巻は朝鮮が英、仏軍と戦ふ大捷報、長門耶蘇宗門の流行など同じく慶應三年四五月の交のニュース書信を収む。
第二十八編(上巻五十五枚、中巻四十八枚、下巻四十三枚)上巻は兵庫開港に関する将軍および諸侯の建言、泉山御陵のことなど慶應三年四五月頃のことを記した書信でありますが、惜しいことには破損が甚しく完全に読みうるのは僅か三四枚だけに過ぎない、中巻は兵庫開港につき大阪の有力な町人に帯刀を許し扶持をつけ商社組織を命じたこと及び京阪の雑説など慶應三年四月から六月頃までの出来ごとの書信で、中に和歌山や田辺の雑聞もあります。下巻は原市之進の暗殺長崎の外人斬等慶應三年夏の出来ごとの書信を収めていますが、この巻も相当に損じています。
第二十九編(上巻六十四枚、中巻四十九枚、下巻四十四枚)上巻は諸国神霊踊りのこと、紀藩田中善蔵の暗殺、津田出の失脚、岩橋徹輔の土佐行など、京師動揺諸侯の世評等が出ています。中に伊達自得居士から翁に贈られた和歌をも記されているのが注意を惹く。中巻は京摂の神降おどり、和歌山の神霊踊り、大政御一新、鷲尾侍従の高野登山などの書信。下巻は熊野の両部一統、伏見の戦争、関東勢の紀州落などの書信を収めていますが、紀州落ちは翁の見聞もあり稀しい記述である。
第三十編(上巻四十七枚、中巻四十一枚、下巻六十一枚)上巻は伏見戦の続報、大阪城焼亡、東国勢紀州落の詳細、同落武者の雑説等の書信と見聞で、関東勢の紀州に来たものゝことはとても詳しく興味を深く感ずるものがあります。中巻は東久世卿が六ヶ国公使との問答、東征出陣のこと、江戸の状況等の書信。と、九條公の串本上陸のこと、紀藩の勤王方参加までの経過などもあります。下巻は大久保市蔵の建言、土藩烈士の堺事件等の書信や記述を綴つています。
第三十一編(上巻四十七枚、中巻四十枚、下巻六十四枚)京都の外人刃傷、菊池孫左衛門東海道見聞書信神前の仏具禁止、越土長薩安肥六藩の建言などの書信中巻は専ら菊池海荘の天朝への建白二通の写で、終りに「干時に慶應第四戊辰五月仲二日於待月楼上羽山審叟謹誌ス」としています。下巻は護国新論、崎陽茶話邪教始末記と海荘の耶蘇論、普聞の付邪論の各写です
第三十二編(上巻五十枚、中巻五十二枚、下巻三十四枚)上巻は主として開城前の江戸の状況を報ずる書信中巻は五畿七道鎮撫使のことや江戸の諸説、信越の戦況等の書信、下巻は太政官日誌や中外新聞から東国の戦況や外国の事情の抜き書を収めている。
第三十三編(上巻四十九枚、中巻八十枚、下巻五十枚)上巻は菊池孫佐衛門の江戸通信、関東処置聞書および各国新聞第一集(英国ウイセヒ編、大阪出版ハルトリー店、慶應四年後四月発党)、江湖新聞第二号、同第六号の記事を写したもので、外国新聞に掲げた諷刺のポンチ書に翁は興味を惹いている。中巻は中外新聞(第一号から第十六号まで)の摘要抜書きであり、下巻は内外新報(第一号から第六号まで)の抜華筆写であるが東北の軍状に関するものが多い。
第三十四編(上巻五十一枚、中巻の四十八枚、下巻六十一枚)上巻は海荘翁江戸よりの通信などのほか江城日誌(第一号)の抜書を収め、中巻は金銀貨幣の位付、江戸の風説など、及び太政官日誌(第十二号)の抜華を綴り、下巻は北越従軍の久保無二三の書信と北征日誌(明治元年戌辰九月)の抜書を収めている。中巻に紀藩佐幕党の蠢動を記しているのもよい資料であらう。
第三十五編(上巻五十枚、中巻五十六枚、下巻七十七枚)上巻は慶應四年五月の太政官官員録の写 二十三枚、北越討伐の通信、京摂の雑説などを記し、潮岬灯台の工費のことなどもある。中巻は氷川神社への行幸、脱走幕艦へ討手、藩籍奉還表、金銀新造幣の布告など太政官布告の写が多い。うち御布告数々のことの終りに「明治第二巳如月季九日於写春風杏花村舎南窓下、蕃叟」又別のところに「明治二年巳巳春二月季九日書蕃叟樵夫」とある。筆写した日時であらう。下巻は諸侯の藩籍返上書、公卿諸侯への賞典、報国赤心の徒へ扶持下賜などのことを記している。
第三十六編(上巻五十五枚、中巻三十八枚、下巻三十九枚、附録三十六枚)上巻は水戸烈公、東湖、左内松蔭、星巖等維新の志士三十三士の、中巻は文里、清風、耕雲齋等水戸志士五十五士の、いづれも漢詩、和歌、発句、下巻は蓮田正実母の遺文、久阪玄瑞の追懐詩等の写である、うち上中の両巻は用紙の腐朽するものが多い。附録は赤穂義士伝抄、五美談、也有野夫談夢の代、五ノ巻抄等の写を収む。筆写ものゝ散逸をおそれて一冊に綴り附録として加へたものらしい。
第三十七編(上巻五十枚、中巻五十六枚、下巻五十三枚)上巻は采胡澹庵の上表文、森田節齋の小楠公髻塚銘文ほか七編、中巻は御勢、西還七卿の和歌、永井雅楽及び黒田家義士の詩歌等、下巻は大和、生野義挙志士、その他勤王家の詩歌、越前侯の歌詩等の写である
しかし本編は三巻とも用紙の腐朽甚しく繙読に困難であるといふよりも出来ないといふてよい程である。
第三十八編(上巻四十六枚半、中巻四十六枚、下巻四十六枚)上巻は会津征伐のこと、中巻は奥羽征伐のこと、下巻は降伏諸侯のこと、同処置、弘道館の焼亡松前の落城などの書信を写し、最後に大日本国名改正のことに筆を擱き、新論、常陸帯等の写を添へていますが、惜むらくは三巻とも用紙の腐朽とムシ甚しく繙くにも困難なほどである。
彗星夢雑誌総目録(五十四枚)以上三十八編百十五巻の総目録である。全編成つたのち索引の便のために作つたものであらう。しかしこの総目録は概目のところがあり各巻の目次よりも省略されたところがあります。以上に記した各巻の枚数は目次と本文を記している紙だけの数で遊び紙は算入せず、その代り裏表紙の裏打ちの紙に書きつゞけているものは半枚として数へた。だから何枚半とあるのはこの裏打ちに記事の続いているものと御承知ありたい。何にしても百十四巻で五千八百二十四枚半といふ大堆積であり、若し第九編の二巻が存すれば恐らく五千九百枚を超えるであらう。それから字数は書体に大小の相違あり一定せぬが、十行罫紙で一行十八九字のものが概して多い。
尚ほくれぐれもお断りしたいのは各巻の内容を一ト通り記したが、実は以上にあげたようなことが項を別つてカッキリと記されている訳ではなく、多くは書牘の写しであるから種々の事柄が雑多に記されていて、混然たり雑然たりで順序も区別もないのです。だから目次はその記載の概括的のものもあるが、中には書牘中の一部分に過ぎないものもあり、とにかく目次に現はれたものの外にいろいろのものが多量に含まれていて、しかもその目次に現はれていないほどの些事雑事とされたもののうちに、今日では反つて珍重せらるべきことが少なくないかとおもひます。この点を十分含んでおかぬと夢雑誌の正体は掴めないかも知れぬ。
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