幕末の政治・情報・文化の関係について
前国立歴史民俗博物館長 宮地正人氏のご協力を得、1988年11月5日 愛知大学記念会館での講演から製作しました。
私がこの情報集中システムの中で二番目に「臭い」と思っているのは、定飛脚問屋です。定飛脚は、普通ですと余り政治史には出てきません。むしろ、経済史とか社会史のいわば近世にいかに国内経済が発展したか、いかに人々が手紙で行き来できるようになったか、という話の中で出てきます。果たして、幕府はそういう人々のことを考えて定飛脚問屋というものを設けたのでしょうか。
少し堅い話になりますが、1803年に江戸定飛脚問屋の仲間仕法というものが書かれます。その一の項目に「樽御役所エ諸国之変事相届ケ可申事、但、遠国之返事何事によらず年行事の者カラ御知らせ申上べく候、道中長川支の節も申上べく候」というのが、入っているわけです。
今の社会ですと、色々な取り決めとか申し合わせは直ぐ変えられるのではないか、或いは作っても守れないのではないかという固定概念がありますが、江戸時代の場合は、一旦文章で書かれたことは数年どころか百年以上、二百年以上守られているのではないか、というふうに私はこのごろ思っています。何故ならば、この江戸定飛脚の仲間仕法の申合が幕末にそのまま現れているからです。1856年8月に江戸定飛脚問屋の年行事が幕府に宛て注進をします。諸国の変事です。どういうことかと言いますと、大坂の雷雨が、この時の雷雨は異常な程大変な事件だとみえまして他の記録にも載っているのですが、史料では「於大坂表、当年十一日夜子ノ刻カラ寅ノ刻迄大雷雨次第ニ鳴り通、大坂町中之三十四ケ所、近在之二十四ケ所落雷・・・御城内えも落雷御座候哉、烏夥舗落死居候分二百羽余も有之由、飛脚便ニテ為知申参候間、不敢取此段御注進奉申上候」となっているのです。これは政治のことではありません。しかし、普通のことではないことは、こういう落雷とか烏が死んだということまで大坂の定飛脚がそのまま手紙を江戸に出し、そして江戸の定飛脚問屋が老中まで届けるという、このシステムの下に定飛脚問屋という特権グループが幕府から認められた、というように私は思えるのです。
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