幕末の政治・情報・文化の関係について
前国立歴史民俗博物館長 宮地正人氏のご協力を得、1988年11月5日 愛知大学記念会館での講演から製作しました。
ただ、熊本藩にしても、一番情報が手に入りにくかったのは京都情報でした。何故かと言いますと、幕府に気に入られる藩というのは、藩内における尊攘派を弾圧していなくてはならない。しかし、京都の場合には、あれ程全国数百の藩が集まり、藤田省三氏の言葉を用いれば、一種の国際政治が行われていたわけです。国際政治を行うためには、やはりその資格のある人間、新しい日本の動きに熱意を持ち、理解を持つ人でないと情報は漏れない。ですから、肥後藩は、一時は尊攘派を大事にしていましたけれども、ある部分から全部弾圧しましたので、肥後藩には大事な京都情報があまり入りません。
南部藩はある程度京都情報が入っていました。しかし、これは正式の京都留守居の情報ではないのです。南部藩には江幡梧楼という人がいます。吉田松陰がペリー来航直前に藩の規律を破って東北に脱藩した原因の一つが江幡の敵附を助けるためでした。彼は後で那珂通高という名前に変わり、戊辰戦争でも立役者になる人ですが、彼は、このように幕末のペリーが来る前から、吉田松陰をも含めた江戸の漢学者仲間によく名前を知られていたのです。漢学の世界での顔と力量というのは、とても役に立ちます。三河の松本奎堂もそうですが、江戸における知識人の繋がりというのは、江幡梧楼の場合には、幕末京都の風説を入手する場合には絶大な力を果たした如くです。単に、情報はシステムがあるから入るのではないのです。それを入手する一つの社会関係なり、文化関係ができていないと絶対に入らない。特に、政治情報にそれはあてはまります。
次に、豪農・豪商が、こういう情報をどう手に入れたかという第三のお話に移ります。これも材料は非常に多いのですが、今日は紀州の話をします。紀州に日高郡というのがあります。日高郡の北に有田郡があり、その北に和歌山があるのですが、その日高郡に羽山大学という人がおりました。この羽山大学という人は、明治11年に71歳でなくなっていますから、歳はご想像できると思います。この日高郡の北塩屋浦、今では御坊市になっています。ここに居たお医者さんなのです。日高郡では一番最初に種痘を入れた人ですから、蘭学に造詣が非常に深い在村蘭方医なのですが、一面では明治になって神社保存の運動をやる人であり、一面では国学的な要素を持っている。蘭学者か国学者かというのは、紀州の場合にはあまり役に立ちません。知識人とは、当時の考えで言えば、蘭学の知識がなければならずまた国学の知識もなければなりません。これが在地の知識人と思うのですが、その人が百冊程の風説書『彗星夢草子』を見る機会を与えられまして、情報の問題で非常に教えられたので、その一端をここでご紹介してみたいと思います。
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