幕末紀州の知識人 羽山維碩(大学)
風説留*1 『彗星夢雑誌』百十五冊記す
和歌山文化協会郷土研究部部長 小弓場弘文
今日、日本外交の基軸は、日米外交にあるといわれている。日本の平和と安全は、ひとえにアメリカ軍事力に依存している。
この日米関係のはじまりは、嘉永六年(一八五三年)ペリー提督の浦賀来航、続いて翌一八五四年、日米和親条約の締結に至った。これが近代日本の幕開けであり、日本開国となるのである。そして、この歴史的な条約締結からちょうど今年は百五十年目にあたっている。
日米両国においては、これを記念してさまざまな記念行事が行われている。静岡県の下田市においては、毎年、黒船祭りが行われているという。
現在、NHK大河ドラマ「新撰組!」が放映され、全国的な反響を呼んでいる。また今年は日露戦争から百年という年でもあることから、幕末から維新にかけての動乱の時代をもう一度思い起こそうということで、今、幕末ブーム、維新ブームが起こっている。
そして、この時代の転換期に生きたのが、羽山大学である。羽山大学は、旺盛な知識欲と識見、自らつくりあげた多彩な人脈情報ルートを活用して、当時のさまざまな政治情報や社会の風説等を丹念に書きとめ、後世に残したものが『彗星夢雑誌』である。
本年は日米修好百五十年という記念すべき年にあたり、この大作を残した羽山大学を顕彰しようとするものである。
羽山維碩は文化五年(1808年)6月24日、日高郡印南原村(現印南町)に生まれ、幼名芳之助、長じて大学(大岳)と号した。
若くして京都に出て蘭方医学を学び、天保五年(1834年)26才で北塩屋村(現御坊市塩屋町北塩屋)で開業した。
塩路権兵衛の三女楠野と結婚したが、実子に恵まれなかった。
大学は蘭学に非常に造詣が深く、又、国学、古道に通じ、特に敬神、尊皇の志厚く、蘭方医として医業に励み日高郡内の新知識人として令名高く尊敬をあつめていた。
とりわけ嘉永三年(1850年)長崎から和歌山に牛痘が伝わるや、牛痘の効能を冊子に印刷配布して、率先郡民のその普及につとめた。「万一天然痘にかかることがあれば金五両と米一俵贈る」旨の記事をもって、その有益無害であることを言明する程の自信を示した。これは政府が法律によって種痘を強制した明治一八年(一八八五年)に先立つこと三十五年、県内で日高郡が最も早く種痘が普及した先進地域であったという。これは羽山大学の医学者としての功績である。
明治十一年(1878年)4月7日、71才で没した。墓は北塩屋の塩屋浦を見下ろす小高い山あいの斜面にある。
こうした医学者としての功労の外に、幕末維新の政治史研究に貴重な資料を提供した、『彗星夢雑誌』を書き残したものである。
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