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障害を受けた心 2月22日

小さいときから祖母に足がないことが私には“気にはなったが普通”だった。
「うちのおばあちゃんは足がないねん。」
「なんで?」
「病気で、足を切らんかったら死んでたって。」「ふ~ん。かわいそうやな。」
「うん。」と友達と遊びながらよく話していた思い出がある。
割合的にはどうかわからないが、この島に障害を受けた人はかなり多い気がする。病気の時に医療の力が追いつかなかったり、事故、生まれながらといろんなところで障害を受けた人に出会う。

・ちょっと背が低い、指が数本ない大工さんに食事を出した奥さんの会話。
「大きくなるようにいっぱい食べてね。指が生えてくるかもよ。ふふ。」
「そりゃ、奥さん無理ですぜ。がははは。」
・海岸で仲良しの二人組
「おまえ、(目が見えないから)たばこに火をつけたるわ。わ、わ、わ、美人。見ろ!」
「どこ?」
「うそ。」
「俺ら、この冗談なつかしいんだ。」彼に視力があった頃のことだろう。
・ある村で
「彼女、いろいろあって気が触れてしまってねえ。(訳の分からない事を喋り続けている)しかたないから、いつもここで食べてるの。」と言ってのけて面倒を見ている村の人たち。
・ある村で
「この子の家ね、焼けてしまって親が死んだのよ。だから今日からうちの子ね。本当にかわいそうだわ。」

など、よく聞いたはなしで、どれをとっても私は言えないことばかりである。なんで「言えない」かと考えると心のどこかに「そんなこと言ったら申し訳ない。」とか「最後まで責任がおえない。」といった思いだろうか?しかし、反対にもし自分が何かしら障害を受けたら「この島の方が気が楽だ。」と思ってしまう。周りに気を使う度数がうんと減る。足がないことを、視力が無いことを、親がいないことを、大変だが「へ~そうなの。」とそのまま受け入れる度量が個人にも地域にもある。それだけ人との繋がりがしっかりしているのだろう。
「助ける人を援助する」関係がある。うちの子どもにするわ!と言ったところで隣の奥さんたちも当然面倒を見ることが前提だろう。助ける人を援助する、この感覚が日本よりもはるかに高い。そして、障害を受けた人に対して“気にはなったが普通”に接する事がもっと多くなったら、結局は自分が住みやすい空間を得ているのだろうと思う。
駅で車椅子の人に、「お母さん、あの人何で足が無いの?」と大声で言った子供に、「これ!シッ」と言うか、
「ほんまやなあ。何か手伝えるか行って聞いておいで。」と言うか。人って無関心という「障害を受けた心」の方が治りにくいと思う。

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