さてここで京都付近の運材の事情について補足しよう。平安京の造営に必要な木材はもちろん近いところがら伐り出されたが、もう一つの有力な供給源は丹波地方であった。丹波の材は保津川を筏に組んで流したようである。筏の陸上げ地点は嵯峨および梅津で、ここから京の都に運ばれた。 丹波地方はその後も引き続いて都造営の重要な役割をになうことになった。その後の織豊時代には木材の集散地は嵯峨、梅津、桂であった。慶長十一年(一六〇六年)に角倉了以によって、殿田-嵯峨間の運河が開削された。現在の大堰川という名称はその名残りである。その後文久年間(一八六一~一八六四年)には嵯峨-千本三条間に西高瀬川が開削された。そのため千本三条に材木町ができたのである。 また慶長十八年には、角倉了以によって東高瀬川が開かれることになる。これによって木屋町二条と伏見の間の舟便は物資輸送の大きな役割をになうことになった。それまで淀川沿いで陸上げしていた木材は、直接京都の中心まで運ばれるようになり、ここに材木屋や薪炭商が集まった。木屋町の名や川筋に沿っていまも残る材木町の名前は、そのときの名残りである。 なおここで付記したいのは東寺(教王護国寺)と西寺の用材である。この二つの寺は真言宗の本山高野山の京都の拠点として、平安遷都にやや遅れて着工されたものであるが、その用材は勅許を得て伊賀から運んだそうである。それらの材は木津川を下って淀川との合流点に至り、そこから桂川をさかのぼって堀川に引き入れられたのである。奈良の都と東大寺造営のとき重要な役割を果たした琵琶湖沿岸の木材や田上山のヒノキも、かなり使われたようであるが、それらはいずれも宇治川を下ったのち桂川をさかのぼって、京都に運ばれたのであった。 京都は平安遷都以降の長い歴史の中でたびたび大火に見舞われている。そのたびごとに再建のための大量の木材を必要とし、丹波国、近江国、紀伊国などから補充した。特に御所の再建は緊急を要するものであったから用材の大きな堆積場が必要であった。御所正面に設けられた原木置場の名残りが現在の丸太町通りの名前のおこりだという。そのことは明治年間に東本願寺が建立されたとき、現在の京都駅から七条通りまでは丸太の山積みで、全く見通しがきかなかったという古老の話からも、納得できることである。 東本願寺の建物は明治十三年(一八八○年)に着工されたものである。このとき阿弥陀堂の用材として、直径二メートルの巨木が、越後国の門徒衆から寄進された。それは刈羽郡尾神嶽の山中にあったもので、柿崎港に運ばれたのち船に積んで、日本海沿いに下関に至り、瀬戸内海を回って大阪から淀川をさかのぼり、伏見に陸上げされた。そうした大材は棟木にしたが、引きあげるとき重すぎるので綱が切れてしまった。そこで信徒の女性たちは黒髪を切って献上した。それを綱に巻き込んでようやく建物を完成させることができたという。その綱はいまでも本願寺に残っているが、おそらく東大寺のときはこれに似た話が、もっと多かったであろうと思われる。 次は江戸についてであるが、江戸城がはじめてつくられるとき、その用材の一部は天竜川流域と富士川流域から運ばれた。伊豆半島を迂回する海路によったのである。これに続いて紀伊、飛騨、信濃などでも順次奥山が伐採され、川に沿って海に出し、船で運ばれるようになっていった。