元禄の復興は三度目の建物にあたるが、このときは当初の規模を改め、本尊の大仏を覆うだけの大きさに縮小した。創建のときに比べると奥行きはほぼ同じであるが正面の幅は約六割になった。このように計画を縮めたが、すでに山林は伐採を繰り返した後であったから、昔のように長大な材を集めることはできなかった。やむを得ず、柱は長さを継ぎ、直径は何本もの材を寄せ集めて太くするという方法によって、ようやく建物を完成することができた。木材の欠乏が合成柱の技法を生んだのである。
この合成柱は、芯になる丸太の周囲に、樽のクレ材のような当て木を重ねて寄せ合わせ、それを鉄の胴輪によって締めつけるというものであった。その事情をもう少し詳しく説明するために、江崎政忠氏の調査した数字を引用すると次のようである。柱の総数は六十本であるが、これをつくるのに用いた芯木は百四十六本で、当て木の総数は三千二百本にも及んでいるという。つまり長さ方向には二本ないし三本の丸太を継いで芯木をつくり、その周囲に約五十本の割材を寄せ集めて、一本の太い柱をつくったということである。このようにして木材の不足を補ったのであるが、それでも同一の樹種をそろえることができないで、各地から集めたいろいろな材が混用されたようである。現在の大仏殿の向かって右側中央付近の柱の下部には、子供がくぐり抜けられるくらいの大きさの穴があいている。そこをのぞくと右に述べた柱の構造がよくわかる。 さて柱は合成木材の手法で解決したが、屋根に必要な二本の大虹梁だけは、どうしても一本の自然木でなくてはならない。そこでこれを探すのに大変な苦労をした。この材は九州日向国の霧島山で見つけたアカマツである。長さは十三間(二十三・五メートル)、元口は四・五尺(一・五メートル)もある。
この大木を海岸まで約十五里(六十キロメートル)の距離を運ぶのに要した人数は十万人、牛四千頭と記されているから、いかに苦労したかが想像できよう。次に海岸に運び出した材木は、特別につくられた千石船に積んで大阪湾に運び、淀川から木津川をさかのぼり、木津から奈良に運ばれたのである。それに要した期間は、伐採されてから到着まで、約一年の歳月をへている。このように数多くの苦労をへて、ともかく元禄の三回目の建物はできあがった。私たちがいま仰ぎみる大仏殿はこれである。
ここで参考までに名古屋工業大学教授内藤昌氏の調査による木造建築の大きさ比べを引用させていただくことにしよう(内藤昌「木からの日本建築史」-「グリーンパワー」昭五九)。源為憲が天禄元年(九七〇年)に記した『口遊』によると、古代の三大建築の一位は出雲大社、二位が東大寺大仏殿、三位は平安京大内裏大極殿であった。もとの大仏殿の高さは四十七・三メートルであったが、出雲大社は四十八・五メートル以上はあったらしく、一説には九十七・○メートルもあったという。高さの一位は東大寺七重塔で百メートル、相国寺大塔もこれに匹敵したという。
織田信長が三年の歳月をかけて建てた安土城の天守は地階を含む七階建で、高層建築の最初のものであった。秀吉の大阪城、聚楽第、伏見城、家康の江戸城、大阪城、二条城、名古屋城は、いずれも前例となる天守の規模を超える努力を払った。その場合常に目標になったのは東大寺大仏殿で、安土城の天守も大仏殿の棟高と同じであった。
秀吉による京都東山の広大寺は、大仏殿をさらに一まわり大きくしたもので、桁行八十九・ニメートル、梁間四十八・六メートル、棟高四十八・五メートルで、日本歴史上空前にして絶後のものであった。文禄三年(一五九四年)に上棟し、二年後の伏見大地震にもビクともしなかったが、のちの慶長七年(一六〇二年)に大仏再鋳造の工事中に、失火によって炎上してしまった。
*東大寺・大仏殿の合成柱。下部にある穴をのぞくと、柱の構造がよくわかる