文治二年(一一八六年)春に、後白河法皇から周防国(山口県)が寄進されたので、重源は十余人の役人と、宋の鋳物師陳和郷らを従え、瀬戸内海を渡って周防の杣に入った。そのとき内海沿岸の国々は源平の戦の終わった直後で、疲弊困窮はその極みに達していた。重源らは船中の米を施し、農耕の種子を与えたりしながら、深山幽谷をことごとく巡視して良材を探し求めた。また良材を見つけたら米を与えるという奨励の方法を取ったので、杣人たちは大いに発奮し、谷、峰の境なく尋ね回ったために、成績は大いにあがった。
しかし何分にも柱一本の長さ三十メートルというような大木であるから、これを伐り出す困難は非常なものであった。一本ごとにロクロニ張を立て、柱の元と末に二筋の大綱をつけて引き出した。綱は直径六寸(○・一八メートル)、長さ五十丈(百五十一・五メートル)あり、ロクロを押すのに七十人の人夫を要した。ロクロのないときは、綱を引くのに千人あまりの人がかかった。またこれを引き出す道路をつくるのが大変で、あるときは数十丈の谷を埋めて嶮岨を平らにし、あるときは巨大な磐石を砕いて山路を開き、密林を伐り、いばらを除き、大橋を構え、谷を渡し、厳寒に耐え炎暑を凌いで、人力の限りを尽くし、難事業を遂行したのである。
ところがこのようにして集めた木材も、良材ばかりでなく、中が空洞になっていたり、いろいろな損傷があったりして、実際に使用できるものはそれほど多くなかった。伐り出した木材は、川を下して海に出したのであるが、これがまた大変な難事業であった。佐波川の下流七里(二十八キロメートル)の間は、水が浅くて木材を流すことができないので、河をせきとめて水をたたえ、ダムを造って順次下流に流し、七里の間に河堰を百十八カ所もつくった。また杣中道をつくること三百余町(三十三キロメートル)に及んでいる。これがため人夫たちは手足ただれ身力悉く費えっくしたという。
このようにして瀬戸内海に運び出した木材は、船に積んで大阪湾に運び、淀川に入って木津川をさかのぼり、木津に集めて、山を越え奈良に運ばれたのである。そのときの筏は重源上人の創意による特殊な筏であったが、綱とする葛藤の類が周防国だけでは足りず、他国にまで求めた。筏が木津に着いたときも、川が浅いのでいろいろの手段を考え、丸太の前後に船二艘ずつ結びつけて木を浮かせるという巧妙な方法を用いた。木津から東大寺までの陸路の輸送は、大力車に百二十頭の牛がつき、さらに諸官、諸院、有縁の人たちが大勢で綱を引いた。法皇をはじめ女御までこれに参加した。それは綱を執ることによって、毘盧遮那仏に結縁することができると信じられていたからである。
以上は『東大寺造立供養記』に書かれている要旨であるが、この本の史的価値は定評のあるところであるから、大筋は信用してよいと思われる。いずれにせよ鎌倉時代の人たちの異常な努力によって、焼失から十五年後の建久六年(一一九五年)に、東大寺はほぼ昔の偉容をしのび得るまでに復興した。まことに絶大な努力の結晶というほかはない。
なお杣入りから大仏殿母屋柱の建つまでの期間は四年四カ月を要したわけであるが、佐波川の流域には、いまもなお当時の苛酷な労役をうらむ口伝えが残っているそうである。いかに苦労が大きかったかを証明するものであろう。
ここで蛇足ではあるが、歌舞伎で有名な「勧進帳」のことについて触れておこう。勧進とは寄付の意味で、東大寺再建のために交付された官許の寄付の趣意書が勧進帳である。奥州に逃げて行く義経の一行は、東大寺再建のために諸国をめぐる山伏の姿に身をやつし、官許の勧進帳を持っていると見せかけて、安宅の関を無事通ることができたのである。それを劇にしたのが「勧進帳」である。
さて前述のように、絶大な努力によって再建されたこの大仏殿は、供養から三百七十三年後の永禄十年(一五六七年)に松永久秀の乱でふたたび灰儘に帰することになる。大仏の頭部も焼け落ちてしまった。翌年大和国山辺郡山田の城主山田道安が頭部を修復したが、つづく兵乱に社会は疲弊し、大仏は露座のまま風雨にさらされること百三十年に及んだ。元禄時代に入って東大寺の塔頭竜松院の公慶上人の勧進によってふたたび工を起こし、宝永五年(一七〇八年)に三回目の現在の建物ができあがったのである。
東大寺の入口にあたる南大門は、二回目の戦火から焼け残った鎌倉再建の建物で、重源上人の採用した天竺様式を伝える唯一の遺構として貴重なものである。これに使われている太い二十四本のヒノキの柱は、あるいは周防国から運んだものかもしれない。この門が仮りに焼失したとしたら、もはや国産材で建てることができない事情は、前にも書いたとおりである。
(注)最大の木造建築というと東大寺と京都の東本願寺を思い出すので、参考までに江崎政忠氏の記録によって二つの建物の大きさの比較を書き加えておく。尺度は古いままで記載した。
東大寺大仏殿 重層 寄棟 本瓦葺 桁行(心々)三十一間二尺一寸六分梁間(側柱心々) 二十七間四尺二寸 高さ二十六間一尺 柱数六十本(直径四尺~五尺五寸) 石垣東西三十七間二尺、南北三十三間四尺六寸、高さ一間三尺
東本願寺本堂(阿弥陀堂)単層 入母屋 本瓦葺 桁行(唐戸側柱心々) 十六間五尺 広縁(側柱心々)三十一間五尺 梁間(向拝堂柱心々) 二十六間二尺四寸 広縁(床柱心々) 十八間三尺六寸 高さ 十五間五尺六寸 本柱七十本 明治二十五年一月上棟
東本願寺大師堂 重層 入母屋 本瓦葺 桁行(唐戸側柱心々)二十八間四尺 広縁(側柱心々)三十五間 梁間(向拝堂柱心々)三十二間三尺一寸八分 広縁(床前柱心々)二十五間 高さ二十一間四寸六分 本柱九十本 明治二十二年五月上棟