このような大量の木材が、どこから、どのようにして運ばれたかという事情は興味あることであるが、古文書には創建当初の木材については書かれていない。ただ聖武天皇の詔勅に、大山を削って堂を構うとあり、その建物および大柱の数量は記載してあるが、木材全体の数量、産地、運搬方法などについては書いてないので不明である。 当時すでに、大和平野が良材に欠乏していたことは、前述したとおりである。したがってこれらの用材は当然、木津川の上流、宇治川の沿岸、さらにまた琵琶湖を利用して、遠く比良山脈や甲賀郡の野州川流域にまで、その産地を求めたようである。有名な石山寺は、琵琶湖が瀬田川になって流れ出るところにあるが、この寺は当時、琵琶湖に運び出した木材を検収するために、東大寺の良弁僧正によって建立されたものであった。そのことによっても当時の輸送事情の一端を推しはかることができよう。
このように水運を利用することによって、木材は木津川を通って木津に集め、さらに人または牛の力によって、陸路で奈良坂を越し、東大寺に輸送されたのである。その他の必要な物資も、大部分はこのような経路をへて輸送されたものと思われる。ついでながら東大寺創建のとき使用された諸材料について、『東大寺雑集録』をもとに、前記の江崎政忠氏の調査した結果を紹介すると、熟銅七十三万九千五百六十斤(十三万三千百十二貫八百匁)、金四百三十六両、水銀五万八千六百二十両、炭一万六千六百五十六石という。木炭はおそらく銅と錫を溶かすために使ったものであろう。現在の数量に換算すると四万四千俵くらいになるとのことである。
ともかくこのように十年に近い歳月と、莫大な物資を使い、国をあげて努力した結果、ようやくにして大仏殿とそれに付属する数多くの建物が完成したのである。当時の人たちにとって、夢想すらできなかった一大荘厳の世界が、眼前に現実となってあらわれたのであるから、その驚きと喜びの様子は想像に難くない。
ところがこのようにしてできあがった東大寺も、四百年ほど後の戦火によって灰燼に帰する悲運に見舞われることになる。それはかの源平の乱のあった治承四年(一一八○年)のことであった。
平清盛の命によって、東大寺と興福寺に討伐軍が向けられた。平重衡の軍勢は十二月二十八日の強風の夜、東大寺に向かって火を放ったのである。この兵火によって、さしも天平文化の粋を集めた千古未曾有の大建築は、ついに焼け落ちてしまうことになる。このときの有り様は『平家物語』巻五に書かれていて、その名文はよく知られているところである。まことに惜しみても余りある痛恨事で、仏教の訓えにある「生者必滅 会者定離」のことわりを、しみじみ覚えさせるできごとであった。記録によると、翌年の二月になっても、大山のように積み重なった灰の山から黒煙が高く天に沖して、天下の人ごとごとく嘆き悲しみ、なすところを知らなかったと書かれている。
後白河法皇はこの東大寺の焼失をいたく嘆き、間もなく再建の院宣が下されることになった。当時の国情は、藤原氏の栄華に続いて源平の戦があり、国力は非常に疲弊していた。そのため桁行二百九十尺(八十七・八七メートル)、梁間百七十尺(五十一・五一メートル)、棟高百五十尺(四十五・四五メートル)の大仏殿を、旧規模によって復興し、さらにこれに付属した南大門、中門、歩廊などを再建する大工事は、並たいていのことではなかった。
たまたま高野山に俊乗坊重源という傑僧がいて、東大寺復興の命を受け、広く諸国を回って大勧進を行い、ついに再建の大事業を完成させたのである。
できあがった大仏殿は、『東大寺造立供養記』によると、柱の太さは五・五尺(丁六七メートル)、長さ五十~百尺(十五・一五~三十・三メートル)以上が九十二本、それに太さ三尺(○・九一メートル)ないし四尺(一・ニメートル)および五尺(一・五メートル)ないし六尺(一・八二メートル)で、長さ百二十尺(三十六・三六メートル)および百三十尺(三十九・三九メートル)の木材が梁や柱に使われたことが書かれている。その木材を集めるのは容易な業ではなかった。