藤原京ののち間もなく、元明天皇三年(七〇九年)には平城京の造営が始まることになる。これは唐制にならい、長安の都を範とした都市計画であったから、それに要した木材は想像以上の莫大な数量に達したと思われる。その事情については、あとでこの時代の代表的遺構である南都東大寺について説明するが、東大寺だけを見ても、これに要した建築用材は驚くべき量にのぼるものであった。
ところでこのような莫大な量の木材を、どこからどのようにして供給したのであろうか。すでに奈良朝のはじめころ、大和平野の四周の山林は伐り荒らされて、木材資源は不足していた。そのことについては前にも記したとおりである。木材は運搬が困難であるから、できるだけ近い地方で求めようとしたのであろうが、何分にも奈良は盆地であるから、四周の山を越えて運ばなくてはならない当時木材運搬のために採られた方法は、木をばらばらにして川を流す管流しか、筏に組んで流すやり方か、または舟による運搬であるから、いきおい川が重要な役割を果たすことになる。
そうした条件のもとで、大きく役立ったのは木津川であった。木津川は伊賀国の流れの大半を集め、大和の流れを合わせて、笠置から木津にいたり、北に折れて淀に達しここで宇治川および桂川と合して淀川となり、大阪湾に通じている。このような地理的条件をもつため、後世にいたるまで、大和地方の主要な輸送路の一つとして、経済上に大きな貢献をした川であった。そのため主要な木材の供給地は、木津川に通ずる琵琶湖沿岸の近江地方と、丹波および伊賀地方になった。距離的にいえば、むしろそれよりも近い紀伊、播磨、四国地方の木材があるが、それが用いられなかったのは、輸送のむずかしさによるためであった。
木津川は昔は泉川とよんでいた。現在の木津町も古い呼び名は泉津であった。百人一首の「みかの原 わきて流るる泉川」と詠まれている泉川は、いまの木津川のことであり、みかの原は木津の対岸にあたる場所の地名である。泉津は川が東から流れて来て北に折れる彎曲点にあたり、当時は奈良から京都地方に通ずる要津であった。そのため木材の集散地として繁栄し、ついに木津と呼ばれるようになり、泉川もまた木津川と名前が変わったのである。このように町や川の名称まで変わったことをみても、この川が木材の輸送にいかに重要な役割を果たしてきたかを、推察できるであろう。
さて木津川に集められた木材は、奈良坂を越えて奈良に運ばれた。奈良坂というのは、今日のいわゆる奈良坂ではなくて、歌姫越のことである。この輸送路はすでに藤原京のころから始まっていたようであるが、のちに次第に盛んになって、大仏殿建立のときには、前後三回にわたってこれが利用された。この輸送路があってはじめて大仏殿の造営が可能であった、といって、決して過言ではないであろう。
ところで木材の供給であるが、はじめのころはまず木津川の上流で木を伐採していたのであるが、のちには遠く中国、四国、九州などからも木を求めるようになり、大阪湾に着いた後は淀川、木津川を通って、奈良に運ばれた。そのことについてもう少し詳しく説明しよう。
有名な大和長谷寺の本尊十一面観音像の造顕由来の伝説によれば、近江国高島郡の白蓮華という渓谷に、長さ十余丈のクスノキの古木があって、これが大雷雨によって流れ出た。木津の浦に漂うこと六十九廣、のちに大和八木の里に運ばれ、さらに当麻に移され、長谷の河畔に放置されていた。その材から天智七年(六七八年)に仏像が彫られたということである。この木は前記の経路をへて、大和に運ばれたものと考えてよい。
さらに『続目本紀』によれば、西大寺の西塔の材料は、近江国滋賀郡から運んだと書かれている。また法華寺金堂の用材は伊賀地方から求めたが、それと同時に、丹波と琵琶湖北岸の高島地方からも運んだことが、正倉院文書に記されている。これも木津経由である。
このように時代の推移とともに、木津川を利用する木材の需要はますます増加し、周囲の森林は次第に荒廃することになった。そしてその後の長期にわたる濫伐で、さしも美林を誇った江州や伊賀の森林も、ついに今日のような貧弱な姿になってしまったのである。ことに田上山は、今日では砂防工事の代表的な禿山になっているが、そのむかしは遠く藤原京にまで運ばれたほどの優秀なヒノキを、多量に保有していたことは前述したとおりである。こうした淀川上流の莫大な木材の伐採は、やがて山林の荒廃を招いて土砂を絶え間なく流出させ、ついに今日の大阪の土地がつくられることになったのである。