前節までに私は、幹は水を通しやすい構造になっていること、とくに広葉樹には道管という多数のパイプが含まれていることを書いた。この中を水が通るわけであるが、そのことを知るにはタモやカシの木片の木口面に口をあててタバコの煙を吹いてみるとよくわかる。反対側の木口から煙が出てくるのである。南洋材のアピトンをたて方向に使って椀をつくって水を入れると、ぽとぽとと水が漏れて椀は空になる。それは当然で、それくらい水が通っていなければ樹木は生長できない。
そこで次のような疑問を持たれる方もあろう。日本酒はスギの樽で醸造する。またウイスキーはナラの樽に入れて長い歳月のあいだねかせておくという。だがもしいま書いたようであれば、酒は漏れて空になってしまう。水槽も水が漏れて用をなさないはずである。立木のときは根から梢まで水が通っているのに、切り倒してしまうと水が通らないというのは、いかにも不思議ではないか、という疑問である。それには次のような秘密がある。
針葉樹の仮道管の壁には多数の穴があいていることはさきにも書いた。この穴の一つひとつにバルブがついているが、辺材から心材になって、もはや水を通す必要がなくなると、バルブは木が生きているうちに閉じられてしまう。だからスギの樽は酒が漏らないのである。このメカニズムは広葉樹についても同様である。水を通す専用の道管でさえも、心材になってその用がなくなると、隣の細胞から出てくる風船のようなふくらみや分泌物で道管の中がふさがれてしまう。この閉じられ方の度合いが、実は樽材としての適否の分かれ目になる。ウイスキーは貯蔵している間に厚い樽材を通して、ごく僅かな空気の呼吸が必要である。そうした呼吸をしながら長くねかせておく間に味にあの独特のまるみがついて来る。だからビンに入れておいたのではうまくならない。この呼吸の度合いがきめ手になるから、樽材として白ナラは使えるが赤ナラは使えない。空気の呼吸がよすぎて酒,が漏れてしまうためである。 近ごろ印刷技術の進歩によって、ちょっと目には自然の木とまったく区別がつかないほどの巧妙な化粧板ができるようになったが、本物と印刷した木目とがどこか一味違うのは、一方にはこうした造化の神の不思議な仕組みが含まれているからである。私たちは生物的な嗅覚でそれを微妙に嗅ぎ分けているのである。
以上で木の構造の説明を終わるが、ここで一つ付け加えておきたいことがある。さきに私は広葉樹は針葉樹よりも進化したものだと書いた。ふつう進化というと常によい方向に向かっているように思いがちであるが、生物では必ずしもそうとは限らない場合もある。初期はよい方向に向かっていても、爛熟期を過ぎると衰退の方向に向かうこともある。 木本系の中で一番原始的なものはソテツで次はイチョウである。これらはいずれもオスの木とメスの木に分かれている。地球上にはこれらの木が繁茂したあとにヒノキやスギがあらわれ、さらにその後になって広葉樹が出てきた。広葉樹の初期の段階であらわれた木はナラやブナであったが、進化がすすむにつれて次第に矮小な種類のものになり、庭木のように小さな木になって行った。これが木本系の進化の経過である。 そのことから気がつくのは、ごく原始的な段階のものも、またあまり高級になりすぎたものも、ともに役に立っていない。むしろ進化の初期に属する針葉樹や、それに続く初期の広葉樹のほうが実用材として役に立っているということである。
これは示唆に富む話である。歴史をひもといてみると、ある民族が興隆したとき、またある一族が世に出たときというのは、むしろ原始に近い初期の段階である。力は充実しているが粗野で文化のにおいも教養もない。ところが進化の坂を登り、繁栄をきわめて爛熟期に入ると、文化の度合いは高くなるが活力は失われて、やがて衰退の道をたどり始める。考えてみると大きいことはいいことではないし、豊かであることは必ずしも幸福を約束するものでもなさそうである。繁栄への道は実は衰退への道につながっているかも知れない。それが生物界の宿命なのであろう。 生きものにとっては、少しくらい物が足りないくらいがちょうどよい。満ち足りてノホホンとしていられるようになったら堕落するという意見があるが、顕微鏡をのぞいていると、そのことをしみじみと考えさせられるのである。