これまでに私は、時代の推移に伴う彫刻用材の移り変わりの跡を述べてきた。だがそれは地域的にいうと、中央の大和地方を対象にしたものであった。そのころの地方の事情はどのようであったかについては触れていない。それに私が中央の流れといったものでさえ、限られた資料をもとに導き出した私なりの推論であった。だからそれから離れた地方ということになると、資料も少なく推論を出すことはたいへん難しい。しかし考えてみると、この種の研究が急速に進んで、地方のことまでも明らかにされるという事態は今のところ期待できそうもない。だから、そのときまでのつなぎとして、手元にある資料をもとに、私なりの仮説を出しておくことも無意味ではあるまいと思う。そうした考えから、以下に仮説の概要を書いておくことにする。
関東地方および東北地方の資料を、これまでの考え方に従って整理してみると、図1(一三二ページ)のようになる(小原二郎「関東地方における木彫の用材」-久野健編『関東彫刻の研究』昭三九及び「美術研究」第二一一号、昭三五)。これに説明を補足すると次のようである。平安時代は中央付近ではほとんど針葉樹であるが、東北地方はこれとは全く逆で、針葉樹と広葉樹の比が約一対九である。そして関東地方はその中間の七対三程度になっていることがわかる。それぞれの代表的な用材名をあげると、中央はヒノキ、関東地方はカヤ、東北地方はカツラである。
次に時代別に用材の使用比率をまとめてみると、上の図2のようになる。平安時代から鎌倉時代になると、東北地方では広葉樹が減って針葉樹が増え、関東地方も同様に針葉樹が大部分を占めるようになり、平安時代の大和地方とほぼ同じ割合になっている。
さてこの図をどのように読んだらよいであろうか。いまそれぞれの地方の彫刻がその地方で産出された木を使い、その結果が図のようになったと解釈すれば、答えはいとも簡単であるが、私はそれには賛成できない。その理由は二つある。一つはこれまで述べてきたように、日本人は木にこまかい神経を使う民族だから、信仰の対象とする仏像の用材を、そんなに軽々しく地元で入手しやすいという理由だけで選択したとは考えにくいこと。もう一つは当時東北地方や関東地方に、彫刻に適した針葉樹が乏しかったとは考えにくいことのためである。
右のような疑問をもって調査をすすめているうちに、私は以下のような仮説を立てることができるのではないかと考えるようになった。いまもし中央の彫刻様式がある時間の遅れをもって地方に影響していく、という想定に立てば、図2の中に書き込んだ斜め方向の矢印は一つの意味をもつことになる。つまり大和地方の用材の使い方が、次の時代の関東地方の使い方になり、また関東地方の使い方が、次の時代の東北地方の使い方に移っていくという考え方である。いい換えれば、中央の流行は時間が遅れて地方に移って行くという見方ができないかということである。
そういう仮説が妥当であるか否かは、今後の慎重な検討を待たねばならないことであるが、ここでは今は右のような仮説が成り立つ可能性があるということを記載するに止めたいと思う。
*図1 奈良末期~貞観時代の木彫用材の樹種別比率*図2 時代別、地方別による彫刻用材の移り変わり