第5章広葉樹像の系譜と大陸との交流
3.センダンの秘密
貞観時代のケヤキ系の仏像の中で、もっとも特徴的なのはセンダンMelia azedarach L. var. subtripinnataである。この木は貞観時代にだけあらわれて、それ以降は全く出てこない。その代表的な作例は、京都太秦広隆寺の宝物殿の入口正面にある毘沙門天(一一八ページ写真)であるが、そのほかにも金戒光明寺の十一面千手観音、常念寺の薬師如来などいくつかの例が見られる。ところでこの時代の彫刻に使われたセンダンというのは、普通にはオウチと呼ばれる木のことで、楝または苦楝とも書き、いわゆる「栴檀は双葉より芳し」のセンダンとは全く無縁のものである。
栴檀というのは、もともと飛鳥時代に渡来した白檀を代表とする南方産の香木類の総称であった。センダンの名の由来はインドでビャクダンのことをChandanあるいはSandalとよぶことから、その発音が転化してセンダンとなり栴檀の文字が当てられたといわれている。一方オウチは現在は本州南部、四国、九州に分布し、また琉球や台湾にも植栽されている木である。木肌はケヤキに似ているが、材質は軽軟で日常の器具類にケヤキの代用材として使われ、また下駄などにも使われるごく普通の材で、あまり上等な木とはいえない。
ところがここに不思議なことが二つある。一つはオウチがその実体とは似つかわしくないセンダンという美しい名前をもっていること。もう一つはこの木は次の平安時代になると、仏像とは似ても似つかぬ、さらし首を掛ける忌木になっていることである。
滝川政次郎氏の『日本行刑史』(昭三六)によれば、獄門とはもと京の左獄と右獄の門の外にオウチの木が植えてあって、それに梟首したところから出た名称である。江戸時代には打ち首は刑場にさらすようになったが、名称は獄門にさらすという古い言葉が使われた。またさらし首の台には、必ずオウチが用いられたという。『平家物語』巻十一には、大臣殿父子(平家の大将宗盛父子)の首を左の獄門の樗(オウチ)の木にかけたと書いてある。
このようにオウチが忌み嫌われたことは、台湾でも同様であったらしく、金平亮三氏の『台湾樹木誌』(昭一一)には、この木を苦苓と呼び嫌悪していることが記されている。またシナでは槐は良木の代表、樗は役に立たない木とする風習があったという。この場合は良木のエンジュに対する悪木のシンジュの意味であるから樗の文字はシンジュとしても使われたらしい。文人高山樗牛は役に立たざることシンジュのごとく、遅きこと牛の歩みのごとしという意味でつけた名前とのことであるが、オウチとシンジュはよく似た木であるから、文字の上で当時そのいずれを指したかを区別することは難しい。いずれにしてもオウチがその頃よくない木として取り扱われていたことだけは、間違いなさそうである。 ところで後世、このように忌み嫌われるようになったオウチが、なぜ貞観時代に限って仏像用材の代表的な良木として賞用されたかということは、たいへん興味のある問題である。このナゾを解くには、次の二つの疑問について答えればよいであろう。一つはどういう動機からこの木が仏像彫刻に使われ始めたかということ。もう一つはなぜ間もなく使われなくなったかという理由である。
ここではまず第二の疑問から答えることにしよう。この材は一見したところケヤキに似て丈夫そうに見えるが、組織があらく緻密でないために、風化が早くぼろぼろになるので、彫刻用としては良材といいにくい。そのため貞観時代に一時的に流行したが、間もなく使われなくなったと考えれば、第二の疑問はあまり無理なく解ける。そのことは広隆寺毘沙門天の風化のひどさをみると、よくわかる。
次はどういう動機からこの木が使われ始めたかという第一の疑問であるが、これについての私の推論は次のようである。
この時代に仏像の用材を決めることは、きわめて神聖な行事であったから、相当に慎重に選ばれたはずである。だとすれば疑いはますます深くなる。ところが多くの彫刻を鑑定している間に、このナゾを解く一つのヒントらしいものが見つかった。それは次のようなことである。唐招提寺の講堂の客仏(よそから持ってきた仏像)の中に、梵天、帝釈天とよばれる一対の像がある。その材を調べたところ、帝釈天はサクラPrunus sp. で、梵天はチャンチンToona sinensis Roem. であった。ということは、この二体はもとは全く縁のない像だったわけである。恐らく安置されていたもとのお堂が焼けて、講堂に移されたときに二つが組み合わされたのであろう。問題はこの梵天像(一一八ページ写真)にある。
調査の結果からこの像はチャンチンで彫られていることが明らかになったが、これがヒントである。チャンチンは香椿と書く中国原産の樹木で、北嶺、四川、雲南、広東の諸州に分布している。わが国のサンショウのように若葉をつんで香味料にするところから、この名が生まれたという。材質についていうと、別名をチャイニーズマホガニーと呼ぶように木肌が美しく硬度が中庸で、加工は容易、耐久力に富む良材である。シナでは建築、器具、楽器材として広く用いられており、またインドでも工芸品に使われていることが、George Watt: The commercial Products of India(1908)にも書かれている。
そのことから推察すると、現在中国には当時の木彫仏が残っていないので、確かなことは分からないが、チャンチンが木彫仏の用材に使われていた可能性は、かなり高いとみてよかろう。それが奈良末期にわが国に輸入されたとするなら、鑑真の本拠であった唐招提寺にチャンチンの像が残っていても、不自然ではない。この梵天像が中国で彫られたのか、日本に材料が運ばれた後に彫られたのかは、私の知り得るところではないが、材料的な立場からいえば、中国と深い関係をもつことだけは間違いあるまい。
もし上述のようにチャンチンが中国で彫刻に使われていたとするなら、わが国の木彫に影響を与えたであろうことは想像に難くない。いまもし中国のチャンチンに習って、日本で最もよく似た材を探すとすれば、まず第一の候補はオウチであったろう。というのはチャンチンもオウチも同じセンダン科Meliaceaeに属する樹木で、木肌もまた類似しているからである。それはちょうど白檀が輸入されたとき、香木の代用材としてクスノキが選ばれたのと似た事情である。右に述べたような推論が許されるとすれば、ケヤキやハリギリの彫刻があらわれるのは、何の不思議もない。現在でもオウチはそれらの材の代用として使われているからである。
クスノキからヒノキへ、さらにヒノキの白木の肌へと日本的な方向に移っていく流れの中で、あのオウチのバタ臭い木肌が、突如として出てくる不自然さについて、私はかねてから疑問をもっていたのであるが、以上のように推論をしてみると、一応納得のいく説明はできそうである。
*広隆寺・毘沙門天像(オウチ)*唐招提寺・梵天像(チャンチン)