次は木の好みについて書こう。食べ物の嗜好がそれぞれの国によって違い、花の好みが違うように、木の好みもまた同じではない。イギリス人はナラの柾目が特に好きで、古くから「獣の王者はライオンだが、木の王者はオークだ」という。イギリスはもともと木材資源に乏しい国であるから、用材はほとんど輸入に頼っており、チェコスロバキアのオークが最高で、その次はカナダ産のオークだと評価をしていた。ところが明治の末ころ、当時の経済界の重鎮であった益田孝(鈍翁)男爵がイギリスに行ったとき、彼らが珍重しているオークが、わが国のナラに似ていることに気がついた。そこで北海道産のナラを輸出してみたところ、カナダ材に次ぐ評価を得て、その後も引き続いてイギリスで愛用されたことが、江崎政忠氏の記録に残っている「日本木材工芸」2、昭八)。それまでわが国ではナラは雑木とよび、薪炭材としての用途しかなかったのであるから、これは当時の木材界にとっては常識を破る出来事であったといってよい。 さて、先の第二次大戦の後に進駐軍がわが国に来たとき、日本政府は駐留軍が隊内で使用する家具を作って納入した。アメリカ軍はブナの素地塗りの白っぽい家具を指定したが、イギリス軍は濃い褐色に塗ったナラの家具を納入するように要求した。前述のようにアメリカ軍の仕上げはそのまま当時の家具の塗装の流行になって広く普及した。しかしイギリス軍の仕上げはついにわが国では馴染まれることがなかった。日本人の白木好みに加うるに戦後は重厚さよりも明るさを望んだからである。 たまたま輸出した材が輸入国の高い評価を受けて、その木が逆に本国で見直されたという例はほかにもある。例えばベイヒがそれである。この木はローソンサイプレス、またはホワイトシダーとよばれ、それまでアメリカではあまり高い評価を受けていなかったが、日本に輸入されたのち「米檜」として声価を高めたために、本場のアメリカで見直されたということが、市河三禄氏の『林業経済地理』(昭一一)の中に書かれている。
なおここで、ヨーロッパにおける木と生活の歴史の中から、興味あることがらを英国の書Wood(『大図説世界の木材』小学館訳本、平井信二監修、小原二郎分担訳、昭五四)から拾って紹介しよう。
ヨーロッパでは常に新しい良材を世界に求めたが、それは主として家具の用材としてであった。ヨーロッパの大拡張時代に入ると、新しい土地が発見される度に、そこの珍しい木が船で母国に運ばれた。はるばる海を越えて持ちこまれたそれらの木は、家具づくりの職人にいろいろな影響を与えたのである。その中で特筆されてよいのはマホガニーの発見であろう。この木は西インド諸島、中米、およびコロンビアからベネズエラの北部に産するが、最初にこの木に注目したのは、一五九五年にウォルター・ロリー卿に従って旅をした一人の大工であった。はじめのうちは狂いの少ないことと、大木であるため幅の広い板のとれることから便利がられ、船や住宅の用材として使われていたにすぎなかった。マホガニーが家具の用材として本格的な脚光を浴びる時代がやってきたのは、それから二百年も後のことである。十八世紀の後半になって、ルイ様式の家具が流行し椅子の脚はねこ脚になった。ところがこの木の材質は丈夫でねばり強く、こまかい彫刻を施しても折れないということが証明されて、にわかに需要が増したのである。
家具の用材としてもう一つ人気を集めた例にシダーがある。これも南米の家具職人たちの間で細ぼそと使われていたものであるが、ヨーロッパに運ばれて加工のしやすさと狂いの少ないことが評価されて、流行したのであった。当時全世界にわたって広く領土を持っていたのは、ポルトガルとスペインであった。これらの国は植民地から運んできた木に合うような新しいスタイルの家具をつくり、それを流行させていったのである。
ヨーロッパの人たちの間では、このようにして広く世界の各地から新しい木材を求める風潮が普及していった。それらの中にはロッグウッドのように染色の材料として珍重されたものも含まれていた。当時は繊維は主として草木染めによっていたのであるが、マメ科に属するこの木は「黒色の染料」として最高の評価を得ることになったのである。