明治になって輸入された洋家具がオークの厚化粧だったことは前節にも書いたとおりであるが、庶民はやがてそのバタ臭さの中に、西欧的なざん新さを感じ取るようになっていった。ヒノキから一足飛びにオークに馴染むにはいささか抵抗が大きかったが、その中間を結んでくれたのがケヤキであった。城郭や寺院にはすでにケヤキが使われていたが、それでもまだ彼らには抵抗があったらしい。だからはじめはオークの代用材としてケンポナシを選んだ。そして塗装はごく薄く伝統の拭きうるし程度に仕上げた。ケンポナシはそれまで工芸品に使っていたが、木肌がオークに似ていたので、これで洋家具をつくることを考えたらしい。当時としては薪炭材にしかならないと思っていたナラを使って、高級な洋家具をつくることなどは到底考えられないことであった。そのあたりの事情は、北海道のナラがイギリスに輸出されてオークに匹敵すると認められたのが、明治の末期であったことを思い出すとよくわかる。そのことについては後にも述べる。
明治後半から大正時代にかけては、洋家具の主材はナラになった。オークでつくられた本物のヨーロッパの家具に見せるには、ナラがいちばんよく似ていたからである。大正時代になってから木材が不足したので、南方材のチークが高級家具に使われ、さらにラワンが輸入されて大衆家具に使われた。ラワンはまた合板の主材料でもあったから、われわれはこれらの材を通して、ようやく広葉樹の木肌をごく身近なものとして受け取るようになったのである。
現在家具の用材としてはブナが広く使われているが、戦後しばらくの間はブナの全盛期であった。その理由は戦時中に森林が乱伐され、残された木材資源の中ではブナの蓄積が最も多くて、入手しやすかったからである。このブナは洋家具の用材の代表的なものの一つであるが、その歴史は意外に新しく、せいぜい大正時代からとみていい。まだやっと半世紀である。ブナの材質は良好であるが、伐採するとすぐ腐れが入るので、蓄積が多いにもかかわらず、山元乾燥の技術が発達する昭和のはじめまでは、用材にはなり得なかった。アメリカ進駐軍の家具の注文が契機になって、広く普及するに至ったのである。
いまの洋家具はほとんど南方材でつくられていて、種類が雑多で使い方もまちまちだから、木の専門家でさえもその名前を言い当てることがむずかしい。だがこうした混用は、木材不足が甚だしくなった比較的最近のことである。それより以前は輸入材の種類も限られていたから、私たちはもっと木の用途に対して敏感であったし、木の名前も知っていた。いまでは木で作られていれば木製家具だという程度のあらい受け取り方をしているが、戦前はもっと木を見る目がうるさかったのである。
以上のように見てくると、ある種の木肌に対する愛着というものは、民族により地方によって、意外に根強いものがあって、短期間にはそう簡単に移り変わるものではなさそうだということがわかる。それは食物の嗜好がそう簡単に変わらないのと似た事情であろう。そういう見方をしたほうが、実体を的確につかむことができると私は思っている。
*(上)韓国の寺院・海印寺、木の使い方は神経があらい。
(下)韓国のマツ、海印寺境内にはこのように曲がったマツが多い