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日本人と木の文化

第5章広葉樹像の系譜と大陸との交流

10.建物にみる木の嗜好

これまで述べてきたのは、わが国における木の使い方と、その移り変わりの跡を、彫刻を通してまとめたものであった。その中で私が明らかにしたいと考えたのは、彫刻の様式の移り変わりと材料の移り変わりとの間に、きわめて密接な関係があるということであった。ただし彫刻史そのものがねらいでなかったことはいうまでもない。専門外の私にはおのずから限界があることを、よく承知しているからである。
 以上に述べてきた私の推論を、さらに確かなものにするには、鎌倉時代以降における建築の様式と木材の種類や使われ方との関係を、同じような手法によって調べていけばよいと思う。その理由は、彫刻の場合は用材に変化が見られるのは平安朝以前であって、鎌倉時代以降はほとんど一定になってしまうが、建築では逆に、鎌倉時代以降に各種の木材が用いられるようになるからである。とくに茶室では、床を中心にいろいろな種類の木が使われている。これを先に述べた調査と同じ手法で解析していけば、作者をせんさくし、また時代思潮を知るうえで、かなり有力な資料が得られるのではないかと思う。というのは作者の固有の嗜好が、用材の使い分けにあらわれてくるからである。残念ながら私はまだその研究をしていないが、今後機会があればぜひやりたいと思っている。 ヒノキが日本建築の主流になった経緯については第一章で述べたが、その要点をまとめると次のようである。ヒノキの用材は古代からの約束ごとであったが、その後木の使い方は柾目を正常なものとするようになった。そして江戸時代の「木割り」にまで発展し、日本独特の建築意匠術を完成させたのである。
 近世において、住宅は書院造りから数寄屋造りへと発展するが、数寄屋になってから木の使い方に変化が出て来た。スギの板目やケヤキの板目のほかにスギ丸太が面皮柱として使われ、さらにクヌギやアベマキまでが皮付きのまま使われるようになった。そうした用材の変化は時代による美意識の変化があったためであった。
 建築にケヤキが使われた最も古い例は、大和当麻寺の西塔である。ここでは斗きょうの中の斗の部分にだけケヤキが使われている。これはそれまでの経験によって、加工のうえからははるかに厄介であるが、圧力のかかる部分にはヒノキよりもケヤキのほうが適することがわかったからであった。平安時代の代表的建築の宇治の平等院(一三七ページ写真)も同様で、最も圧力のかかる四隅の斗の部分にはケヤキを使っている。それらはいずれも構造材であるから、木肌が外部に目立ってあらわれることはなかった。
 ケヤキの木目を化粧用として積極的に使うようになったのは、桃山時代以降だと私は考えている。その理由は当時の桃山建築の様式が、ケヤキの男性的な木目とよくマッチしたのと加工具が発達したからであった。その後ケヤキは江戸時代の末期に至るまで、城郭や寺院建築の主要材として使われてきたが、その使い方は素肌のままで塗らないところに特徴があったのである。
 さて木の使い方であるが、先に述べたような理由から、ここでは鎌倉時代から江戸時代までを省略し、明治以降の家具の用材について書くことにする。
 明治になって洋家具が輸入されたとき、当時の人たちが材料的に最も奇異な感じを受けたのは、おそらくオーク(ナラ)の分厚く塗られた木肌であったろうと思う。というのは、それまで広葉樹で私たちの住まいの中に入って来ていたものは、ケヤキのほか二、三種にすぎなかった。しかもその表面はごく一部の工芸品を除いては、針葉樹のように素肌のままか、ごく薄く漆をかけたいわゆる拭きうるしの仕上げだった。そこにいきなり厚化粧のオークが入ってきたわけである。
*宇治・平等院は平安時代を代表する建物である

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