前節で私は彫刻の用材として、クスノキに代わってヒノキが登場し、しかも白木のまま用いられている事実について述べた。そうなった理由をもう少し詳しく考察してみよう。
平安時代はいうまでもなく和風文化興隆の時代であった。それを代表するものとして、寝殿造りがあり、文学の中における和歌の誕生があり、国文学の隆盛がある。『源氏物語』が書かれたのもこの侍代であった。そうした趨勢はとりもなおさず、彫刻用材の変遷についていえば、金銅仏から木彫仏への移り変わりを意味するものであり、同時にそれは硬木のクスノキから軟材のヒノキヘと移り変わっていく背景をなすものでもあった。いいかえれば、平安時代になって、日本民族はヒノキの木肌の中にはじめて木材の美しさを見出し、心の琴線に触れるものを感じ取ったとみてよいであろう。
この針葉樹を好み、白木の肌を愛する嗜好は、その後のわが国の木の文化の基調になるものであるが、ここでそれに関連する二、三の事項を付け加えておこう。国語学者の大野晋氏は美をあらわす日本語について、その著書『日本語の年輪』(昭41)の中で、次のように述べている。 「平安朝の『源氏』の時代になって、ようやく確実に日本語は美一般を表わす言葉を持つようになった、といってよいように思う」
「美を表わす言葉は(奈良時代から今日までの間に)クワシ(細)キヨ ラ(清)ウツクシ(細小)キレイ(清潔)と入れ代わってきたことになる。日本人の美の意識は、善なるもの、豊 かなるものに対してよりも、清なるもの、潔なるもの、細かなものと同調する傾向が強いらしい」 また当時の美しさとは金銀で飾る極彩色を表現してはいなかったのである。そのことに関連して源豊宗氏は「貞観時代は美を意味する言葉として『けうら』という語を使っていた。けうらとは清らかであり、清潔なるものを美の理想としたこの時代の人たちの、美意識を反映した語である」と述べている(源豊宗「竜谷大学仏教史学論叢」昭一四)。日本語の「美」が繊細、清潔を意味すること、および言葉自体が平安朝にほぼ固まったことなどを考えると、ヒノキの木肌がそのまま日本語の「美」に当てはまったのであろうと思われる。
さらにまた時を同じくしてヒノキの白木の彫刻があらわれたことなども考慮に入れると、針葉樹の白木が、日本文化の中に占めてきた地位がいかに大きく根深いかということもよく理解できるように思えるのである。
けがれのない清浄さがこの時代に求められた美しさであったが、その美への探求が、また使い捨てという習慣を生んだ。平城京の跡からは、木製の箸や食器がたくさん出てくる。坪井清足氏によれば、『延喜式』には天皇のおぐしを梳くために、一日一つずつ新しいくしを用意する規則がきめられていたという。平城京から出土した箸や食器も使い捨てであったと思われるが、それが現在の私たちの割りばしを使う習慣につながるとみることもできよう。
そうした背景の中から、やがて障子を一年ごとに張り替え、骨を新しく取り替える習慣が生まれてきたであろうことは、想像に難くない。こうした考え方は、ヨーロッパ人が銀製の食器を使って、子子孫々にまで伝えていく習慣とは、本質的に違うものである。彼らの暮らし方は論理的な合理性で貫かれているが、われわれ日本人の暮らし方を支配しているのは、合理性よりもむしろ情感的なものであった。そうした考え方の違いが、やがて日本独特の木の住まいづくりに発展し、この世を仮の棲み家とする思想にもつながっていったとみてよかろう。
堀口捨巳氏はその著書『利休の茶室』(昭24)の中で、「前からのしきたりを破って利休が白木造りを試み、この白木造りの好みは、世をあげてわが国住居のしきたりとなった。そこに利休好みが、日本らしさの上に深く根をおろしたといえるかも知れない。これは神の社などにもあらわれた古いしきたりが、世の総並みの好みとして甦って来たのであろう、ともとれるであろう」と述べ、さらにまた「白木よりも色付きの木はいやしく覚えたからであろうと思う」とも述べている。
こうした日本的な技法の特徴は石の使い方を見てもわかることである。西洋の石垣は加工した切石を使いカミソリの刃も入らないほどにぴったりと合わせて積むが、日本の石垣は自然石で、それぞれの形を生かしながら組み合わせていく。「木のくせ」を組むのと同じ要領である。日本庭園をつくるとき、材料の石をみると、くず石の山のように見えるが、出来上がるとそれは大自然になる。一つ一つの石は体積の七割が地中に埋まり、生きた一つの角だけが土の上に出ている。木の木目の生かし方と同じやり方である。