乾漆像や塑像はまず木で骨格をつくりそれから仕上げていくものであるが、その芯木を調べてみたところ、いずれもヒノキが使われていることが判明した。ただ一つの例外は私の調査した範囲では、唐招提寺鼓楼の乾漆仏だけで、これはサクラでつくられていた。芯木にヒノキを選んだことは、木の性質を知り、適材を適所に使い分けることのできる木匠がいたことを意味する。奈良時代は金工や漆工など、ほかの工芸の技術の高さはよく知られているが、それと同様に、木工についても高い技術があったとみるべきであろう。
彫刻師たちはヒノキを芯材として使っているうちに、おそらくこの木で、乾漆像や塑像よりも繊細で柔らかい表現を、仏像全身ににじみ出させることができると思い当たったに違いない。クスノキという硬材の制約にあき足りなくなった木匠たちは、ヒノキの刃当たりのよさや木肌の美しさに接して、さらに新しい造形意欲をかり立てられたのであろう。 木肌への郷愁といえば次のような例がある。大和の当麻寺本堂にある須弥壇は奈良朝末期のものであるが、その勾欄をみると、黒漆で仕上げた面の上に朱漆で木目が書かれている。また正倉院の御物をみると、蘇芳地金銀絵床脚寵箱は、粉地に美しい木目が書きあらわされているし、聖武天皇の御倚子にも同様に木目が書いてある。これは奈良時代の人たちが、塗りつぶされた漆地や粉地ののっぺりとした肌に、なんとなく物足りなさを感じたためとみてよかろう。
日本人は木目を見ないと落ち着かない人種らしい。そのことは現在名古屋市郊外の明治村に行っても分かることである。ここには明治初年の西洋館が建っていて、木造の建物をペンキで塗って仕上げてある。その室内を見るとペンキ塗りの上にていねいに木目を書いたものがある。私たちの祖先は、何百年ものあいだ木綿と木にかこまれて暮らしてきたが、そこへ急にヨーロッパ文明が入ってきて、白木の上にペンキを塗ることになった。それがなんとも馴染みにくかったので、ああした木目を書いたのであろう。そういえば木片の交錯した文様を楽しむパーティクルボードが流行したのは、戦後のアメリカ進駐軍がペンキ塗りの家具をはやらせたときであった。
いま私たちはエレベーターや電車に乗ると、すばらしい木面の壁面を見ることがある。ほっとして触わってみると、カンカンと鉄板の音がする。なんとなく裏切られた寂しい気持ちになるが、これもまた前記と同様の例である。木への郷愁の強さは、家具や造作に使うメラミン化粧板が、ほかの国では無地や模様のものが多いのに、日本では木目を印刷したものが一番よく売れることからも分かる。テレビやステレオのキャビネットも、木目仕上げにしないと人気がない。プラスチックで作ったテレビに、ウッディ」などという名称がつけられるのは、いかにも日本的な産物である。
以上に述べたことは、日本人の多くが心のよりどころを木に求めているあらわれとみてよかろう。それが奈良、明治、昭和といずれの時代であるとを問わず、海外文化の大きな流れが木肌を押し流そうとするとき、常に抵抗してあらわれてくるのはたいへん興味深いことである。私たちは西洋的な物の見方と材料の取り扱いに、すでに一世紀の経験を持ってきている。それにもかかわらず、今なお金属質の硬くて冷たい感じには、どうも親しみにくいものがあるらしい。
ところで同じ木の中でも、広葉樹の材質感は金属に近いが、針葉樹の材質感はそれよりもずっとソフトである。つるつるに塗った広葉樹の材面は平板的で、いかにも金属を思わせるが、針葉樹の木肌は絵絹のようなうるおいを持ち、輪郭線にはボケによる奥行き感がある。ヒノキにヤリガンナや彫刻刀のノミあとを残して仕上げていくのは、この特質をいっそう効果的にする手法にほかならない。