第3章 クスノキの時代とアカマツ像の秘密
6.時代を映す仏像の様式
木材はふつう実用的な立場から、針葉樹を軟材、広葉樹を硬材とよんで区別しているが、クスノキはいうまでもなく硬材に属する。ということは、それを使ってつくられる作品は、いきおい南方産の硬い檀木で彫られた像に近い感じをもつはずだということである。こうした観点から法隆寺夢殿の観音や、法輪寺の虚空蔵菩薩、中宮寺の弥勒像などを見ると、これらはいずれも木彫像ではあるが、どこか金銅仏に近い硬さをもっていることに気がつく。また百済観音(八○ページ写真)にしても、浅くて硬い彫法と強い直線的な衣紋の様式の上に、造仏当初のあざやかな色彩を重ね合わせてみると、現在のような幽玄な柔らかい木彫の感じは消えて、ずっと金銅的な像容が強く浮かんでくる。法隆寺の四天像についても同様で、あの生硬さは木彫仏よりもはるかに金銅仏に近いといってよかろう。
私は飛鳥の木彫仏が共通してこのように金銅的な像容になっている理由は、その源流になった渡来仏が檀木という繊密な硬い木であったために、材料的な制約から金銅的な硬さをもっていて、それを手本にした飛鳥の木彫仏もまた硬材のクスノキを使ったために、同じ制約の中から抜け切れなかったのではないかと考えている。
いま私は、飛鳥木彫仏の金銅的な硬い表現について書いたが、その様式の中にもよく見ると、さまざまな流れと微妙な変化が見られる。飛鳥期における中国大陸は国が二つに分かれていた。南半分の南朝(四二〇~五八九年)は、宋、斉、梁、陳の四王朝が次々に入れ替わり、北半分の北朝(三八六~五八一年)は北魏から東魏、西魏となり、東魏は北斉に変わる。西魏は北周に変わり、北周は北斉を併合、その北周と南朝最後の陳は隋に亡ぼされて、はじめて全国が統一される。隋以前を南北朝というが、その南朝と北朝の仏像の諸様式が、朝鮮半島の三国を経てわが国に伝えられたのである。この史実からも、伝来された様式が多様であったことは想像に難くない。それを模倣した飛鳥時代の彫刻は、様式の上でかなり混乱があったであろうし、模倣もまた試行錯誤を繰り返したであろう。飛鳥朝を代表する仏師の止利は、この南朝系様式を整理して日本に伝えた人とみてよいのではあるまいか。
白鳳前半になると隋様式が入り、白鳳後半には、唐と、唐を経たインド・グプタ朝の仏像様式が入ってくる。このように多様な様式が流入されて、様式に変化がおこり、美の表現方法も進んでくることになるが、それにつれてより適した木彫の材料を選ぼうという欲求が高まってきたに違いない。それにもかかわらずこの激変の時代に、木彫の用材が一貫してクスノキであったことには、私は二つの理由があったのではないかと思う。一つは模倣に忙しい時代であったから、檀木に見合う代用材は芳香をもつクスノキ以外にないと思い込んでいたこと、もう一つは信仰の対象であった仏像に、仏師の勝手気ままな用材の選択は許されなかったであろうということである。
だがやがて、クスノキは時代の移り変わりという大きな社会的背景に押されて、新しい時代にふさわしい美しさを表現するために、必ずしも最適の材ではない、ということがわかってくる。クスノキが彫刻の代表としての地位を独占したのはこの時代だけであって、次の奈良時代を過ぎると、ヒノキの登場という華やかな舞台の陰に、その姿を消していくことになるのである。
彫刻の用材を調べているうちに、従来は招来仏と思われていた像が、わが国で作られたものであったり、その逆であったりすることがその後いくつかわかってきた。法隆寺の百済観音もその一つである。有名なこの像は、百済伝来の由緒にもとづいて、その名がつけられたとのことであるが、用材はクスノキであることが判明したので(ただし宝瓶と台座はヒノキ)、日本で作られたと見るのが妥当であろう。そのほかの二、三の例をあげておく。
室生寺の弥勒像は白檀で彫られた渡来仏というのがこれまでの通説であった。しかしこの像の用材はヒノキである。したがって日本で彫られたとみるのが正しい。なおこれまで白檀で彫られた渡来仏と言い伝えられているものの中には怪しげなものが多い。本当の白檀で彫られたものは法隆寺の九面観音と高野山金剛峯寺の枕本尊などのほか、小形の像を除いては、きわめて少ないとみてよい。東寺の兜跋毘沙門(一二三ぺ-ジ写真)は渡来説と日本説の両方があったが、用材は中国産の魏氏桜桃であることが判明したので、渡来説が正しいと思う。清雲寺の滝見観音も同様に魏氏桜桃である。唐招提寺の梵天(一一八ページ写真)はチャンチン(香椿)であるが、それらについては後に述べることにする。* 法隆寺・百済観音像(クスノキ)