わが国における木彫仏のいちばん古い記録は『日本書紀』巻一九「欽明天皇一四年(五五三年)五月、茅渟の海に浮かぶ樟木を得て、その材で彫刻した」というものである。日本にはじめて仏像が献納されたのは、『上宮聖徳法王帝説』(聖徳太子の伝記集)によれば五三八年、『日本書紀』では五五二年であるから、おそくともその十五年前後の間に、百済からの渡来仏を手本にした仏像がクスノキで彫られたはずである。その記録が現存する木彫の用材の調査によって裏付けされたわけである。
さて木彫の用材としてなぜクスノキが最初に使われたかという理由は、明らかではない。おそらくわが国に伝来した、北魏あるいは南梁などのかずかずの仏像の中に、南方産の香木で彫られた木彫仏が含まれていたので、それに似た用材を求めてクスノキが選定されたのであろう。金銅仏をもたらした百済の工人たちが、檀木に似た用材を捜すとしたら、香木の代表であるクスノキを選ぶのは、自然の成り行きであったろうと思う。その理由を以下に書くが、その前に檀木について説明を補足しておこう。
私がここで檀木といっているのは、南方産の香木類の総称である。その代表は白檀であるが、実際にはもっと広い範囲の芳香をもつ硬い材のグループであると考えて差し支えない。周知のように白檀はインドおよびジャワ、チモール島などに産する熱帯性の樹木である。ただし半寄生の常緑小喬木であって、樹高は十メートルくらいにしかならないから、直径はそれほど大きくはない。この白檀の幹を土の中に埋めておくと、辺材の部分は腐朽して心材の部分のみが残る。その心材をふつうに白檀とよぶのである。
以上の説明からも想像できるように、材は緻密で重く油脂分を多く含んでいて硬い。色は淡黄または淡褐色で、芳香が強く、美しい光沢をもつ。また精細な加工が可能であるから彫刻に適し、小形の彫刻の用材として古くから珍重されている。材を蒸溜して白檀油を取るが、その白檀油もまた貴重な香料として古くから知られている。漢名を檀香、真檀、栴檀という。『日本書紀』によれば、天智天皇の十年(六七一年)に、法隆寺の仏に奉った諸珍財の中に、栴檀香の名が見えているから、当時すでにこの材が貴重な香木として輸入されていたことは想像に難くない。
そもそも仏教は南方のインドで生まれたから、その儀式の中には汗の臭いを消す工夫が、いろいろなところになされている。香木はそのための有力な道具であった。わが国に伝わっている最も有名な香木の一つは正倉院の「蘭奢待」であるが、その例からみても、仏教の中で香木がいかに珍重されていたかがわかる。 さて話はクスノキに戻るが、この時代に彫刻の用材を選ぶ条件としては、まず第一に香りの高いことがあげられたに違いない。その理由は前述したとおりであるが、クスノキはわが国の香木の代表であってその高い香りはよく白檀をしのばしめるものがある。また材質は滑らかで刃当たりがよく、逆目もたたないから、当時の刃物で加工するには適当であったろう。それに耐久力も強いという特長がある。
さらに当時クスノキの大木が多く生えていたであろうことは、三浦謹平氏がその著書『くすのき』(明三七)に古い記録を引用されているところからも推察できることである。またクスノキの生態については、岩田利治氏の次のような記録がある。「クスノキは長命で一千年を超えるものがある。伊勢神宮林には数千本のクスノキが生えているが、伊勢湾台風のときは早々と枝が折れ、風の抵抗を減らして生き残った。萌芽力が旺盛で裸になった幹や枝から芽が出て、幹が見えないほど繁茂する」(岩田利治『図説樹木学』昭四八)。つまりクスノキは大木が豊富だったということである。
以上のように考えてくると、白檀の代用材としてクスノキが選ばれた理由は、ごく自然の成り行きであったと思われるのである。 *クスノキは大木になるものが多い