私はこれまで、われわれの祖先が古代において木ときわめて密接なかかわりを持っていたこと、および木という材料が、いかにも日本人の好みに合った性質を持つものであることについて述べてきた。木と古代人とのこの深い結びつきは、仏教の伝来する以前の状態を考えると、素直に理解できるように思われる。 ところで飛鳥時代になると、大陸から続々と新しい文化が入ってくることになる。仏教の伝来とともに、建築、彫刻、工芸、絵画など、もろもろの造形技術がわが国に伝えられ、それぞれに華やかな花を開いたのである。それにともなって木は最も重要な造形材料の一つとして脚光をあびることになった。そこで私は、さきに述べた木と日本民族とのつながりというテーマに視点をしぼり、木彫仏の用材が仏教伝来の後にどのように変わっていったかを調べ、私の仮説の妥当性をチェックしてみようと考えた。ここで私が木彫仏をとりあげた理由は次のようである。 まず第一は、木材が彫刻の中に占める比重の大きさである。ふつうに彫刻の材料といえば、石材、金銅、塑造、乾漆などがあげられるが、わが国で最も多数を占めるのは木材で、おそらくその数において九十パーセントを超えるであろう。このように木彫の割合が大きいということは世界に例をみないところである。いいかえれば日本の彫刻史はすなわち木彫史といってもよいほどである。 理由の第二は、木は古代から日本民族と深い結びつきをもっている。従ってその使い方の移り変わりをたどっていけば、民族の嗜好や文化の性格がはっきりしてくるであろう。 第三は彫刻のように芸術的要求の強いものでは、素材のもつ性質が作品に大きな影響を与える。日本の彫刻は木によってその性格が特徴づけられているほどだから、材料が造形技術に及ぼした影響を調べるには木彫仏が最も適している。 第四は、仏像の様式と用材の種類との間に、なんらかの相関があると予想されたからである。その意味は、時代によって様式が変わるが、様式の変化にともなって用材もまた変わっているのではないか、ということである。もしこの予測が正しければ、材料と形の相関について有力な手がかりが得られるわけで、デザインの本質を論ずるうえでも参考になるであろう。また彫刻史に限っていえば、従来の様式による研究とは別な、新しい角度からの研究の方法を提案することができるかも知れない。 第五は、造形史の代表的なものには建築、彫刻、工芸があるが、建築は材料が大きいので用材の種類が限られてしまう。工芸は用材の種類は多いが、本体が小さいので試験片を集めにくい。彫刻くらいの大きさのものなら用材の種類も多く、刃物や加工法との関係も調べやすいうえに、試験片の採取が容易である。 以上のような観点から、私は十年あまりにわたって、わが国の彫刻用材の移り変わりの軌跡を調べることにしたのである。 ここで採集した試験材料のことおよび樹種を調べる方法について説明しておこう。私が集めた試験材料は約七百五十点で、年代的には飛鳥時代から鎌倉時代にわたっている。また、地域的には北海道から九州まで全国に及んでいる。これはとうてい私一人だけでできる仕事ではなかった。幸い久野健博士、元東京芸術大学教授西村公朝氏らのご協力をいただいて、十年あまりかかって集めることができた。 次は樹種の調べ方であるが、もとの彫刻がどんな木で彫られているかを知るには、試験片から、木口、柾目、板目の断面を削り取って、顕微鏡で調べればよい。それはちょうど建物のイメージを、平面図、正面図、側面図によってとらえるのと似ている。針葉樹と広葉樹の木口面を顕微鏡でのぞいて見比べると、針葉樹は仮道管だけで構成されているために組織が整然としている。一方広葉樹は木繊維の間に道管が散在しているので組織が複雑である。道管の並び方は大きく分けて環孔材、散孔材、放射孔材の三種類になる。 木を識別するにはまず木口断面を顕微鏡でのぞいて特徴をとらえ、およその見当をつける。次に縦方向の断面で組織の特徴を確認し、さらに細部を調べるというように、順を追って範囲をせばめ、最終的にどの樹種かを判定するのである。試験片の大きさはふつう五ミリ角くらいのものを使うが、馴れてくると妻楊枝の頭くらいの大きさでも識別は可能である。やむを得ないときはプラスチックを柔らかくして木肌に押しつけ、め型を取って判定することもある。私の集めた試験材料は六割くらいが妻楊枝の十分の一の大きさで、二割はそれより小さいもの、残りの二割は妻楊枝の四分の一くらいであった