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日本人と木の文化

第2章 木の文化のルーツ

4.顕微鏡で結ぶ古代の文化

百済王の棺に関連して、当時の木材の輸送事情について触れてみよう。尾中博士は北朝鮮平壌の楽浪の古墳を調べて、棺の用材はコウヨウザンであろうと判定されている(尾中文彦「日本林学会誌」18・10、昭一一)。この木は中国には産するが、朝鮮には分布していない。古来中国では棺を非常に尊び、その良材を得るためには千金を惜しまず、また遠隔をいとわずして運んだようである。後漢の王符は、その著書『潜夫論』の中で、ぜいたくな葬儀を戒め「貴族が江南産の貴重木を好んで使うので、下級のものもこれに習い、その風習は東は楽浪から、西は敦煌にまで及ぶ」と書いているそうである。この記録と合わせ考えて、尾中博士は、この棺材はおそらく中国の四川省のものであろうと推測されている。コウヨウザン(広葉杉)はスギ科に属し日本のスギより少し重いがほぼ同じ用途をもっている。揚子江以南から台湾に広く分布する良材である。耐朽性が強く帆船のマストとして第一級で中国では古くから重用された木であった。この木が湖南省長沙の馬王堆(五三ページ写真)から出土していることを見ても、尾中博士の推測の妥当性をうかがうことができる。
 さらにまた、楽浪および南朝鮮の慶州の金冠塚から、クスノキが出土していることも注目してよいことであろう。クスノキは日本、台湾および中国南部には産するが、朝鮮には分布していない(済州島にまでは分布している)ので、これもまた朝鮮以外の地から運ばれた可能性が多いと見るべきであろう。
 このような事実から考えると、特殊な用途の木は、当時すでに海を越えて輸送されていたことがわかる。『日本書紀』の中にも、五十猛命が高天ヶ原からたくさんの極子を持って降りられたが、朝鮮には植えないでことごとく持ち帰る。筑紫から始めて大八洲の国のうちに播き、全国をことごとく青山にしたと書いてあるから、すでに神代のころから朝鮮には山林が少なかったのかも知れない。
 古代の人たちが墳墓をつくる熱意と努力の異常さは、現在のわれわれの想像をはるかに超えるものであったことは、仁徳陵やピラミッドなどの莫大な作業量からも容易に想像されることである。そうだとすれば、良材を求めて遠隔の地から運んだという想像は、許されてよいことであろう。
 ところで中国では、一九七二年に西漢初期の約二千年前の墳墓の中から貴婦人のミイラが発掘されて大きな話題になった。有名な湖南省長沙の馬王堆である。貝塚博士によると、後代この地を領した呉の王が、長沙王の墓をあばいてその棺材で廟を建てたという説話がある。歴史学者はそういう小説は信用しないことにしているが、あの発掘で、あまりといっていい一致に驚いたと書いておられる。
 木棺の大きさは小さな家の一軒くらいもあり、大材を使って何重にも囲んであった。私は韓国公州の百済王の棺を思い出して、ああいう良材なら掘り起こして廟を建てることも可能であったろうと思ったりした。その後の報告によるとこの棺材はキササゲ属の木であるが、第一墓の槨(外棺)はコウヨウザンで、キササゲ属の木とともに腐朽の根跡さえ認められなかったとのことである。楽浪の古墳が馬主堆の棺材と同じコウヨウザンであることは興味深い。
 これまでに書いたことをまとめると、華南から北朝鮮に棺材が運ばれていた。日本からも南朝鮮に棺材が運ばれていた。そこでこの四者を結べば古い時代の木の交流が、顕微鏡を通してうかがうことができるということであった。
 古代において、このように貴重材を遠くから運んだ例は、ひとり東洋だけに限らない。西洋にも多くの実例がある。エジプトでは、ピラミッドの中から発掘された古代王族の遺品に、たくさんの木製品がある。それらは金、銀、象牙などとともに、精巧な木象嵌が施されているが、その用材はエジプトには産しない黒檀、紅木、チークなどであって、やはり遠くインド方面から輸入されたものと想像されている。 またニネヴェその他の発掘によれば、バビロニア、アッシリアにおいても、エジプトと同じように、多くの木製家具が使われていたが、これらもまた、黒檀、チークなどを使って象嵌されていたことがわかっていて、その材料は、はるばる南方から運ばれたものと考えられている(Lucas, A.:Empire Forestry Jou., 13,2.1935)。
 さらに紀元前十一世紀に、ソロモンとフェニキアのタイレの王ヒラムとの間でなされた木材供給の契約の記録が残っているという。これは世界最古のもので、ソロモン王はエルサレムに建立した寺院や宮殿の莫大な用材を入手するために、ヒラムに使者を派遣して、林業技術に優れたフェニキア人を、レバノン地方に出向させ、シダーやサイプレスを伐採するように懇請し、その代償として、穀物を送る約束をしたと記されている(Wood, Sept. 1950)。
 フェニキア人は航海術にたけた民族であったから、広く地中海や紅海の全域にわたって交易し、アラビアの南部と思われる Ophir からエルサレムに莫大な量のAlmugtreeを送り、それが柱材や宮廷の楽器材として用いられたらしい。Almugtreeとはおそらく木目の美しいインド紫檀を指すものと考えられている。アッシリアの彫刻にも、木材を運搬しているフェニキアの船の図が彫られているが、これは前記の事実を裏書きするものであろう。
 また別の調査によれば、ドイツのVogtlandの古城跡から、弓、矢、櫛および建築材料など多数の木製遺物が出土されたが、それらの中で、櫛に使われていたツゲ材は、地中海産のものであることが明らかになり、当時の交易の事情を知る資料になったことが報告されている(jhar. Forestl. 1948)。
 以上に述べた数例によっても、洋の東西を問わず、すでに古代において、木材が遠いところがら運ばれていた事実を知ることができる。そのことはまた、当時の文化の交流を物語るものでもある。 さてここで注目してよいことは、西洋においては、黒檀や紅木のように見た目に美しい木や、白檀のように芳香のすぐれた木を珍重した。一方、われわれの祖先は、ごくふつうの木のなかの、目立たない優秀性に着目して、それを使い分けていた、という事実である。 先にも述べたように、コウヤマキはごくふつうの目立たない針葉樹である。その材をヒノキやスギと並べて肉眼で見分けることは、よほど木の取り扱いに慣れたものでないとできないことである。それを太古にわれわれの祖先が選び分け、それぞれの特性に合わせて使いこなしていたことに私は驚かされる。
 このように考えてくると、日本人の木に対する異常なまでの愛着の強さは、すでに太古の時代にまで、その源をさかのぼって考えるべきだと、私は思うのである。*中国・湖南省で発掘された馬王堆の棺の用材はコウヨウザンであった

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