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日本人と木の文化

木の魅力と日本の住まい

4.木を生かす愛情

 金属と木材でものをつくるとき、造形的な効果のうえで一番大きくちがう点は、前者は鋭い刃物で切った硬い線で輪郭が截然と区切られるのに対し、後者は軟らかい線で全体がふんわりと囲まれているということである。それはちょうど、烏口で引いた機械製図の線に対する、軟らかい鉛筆で書いたフリーハンドの線とのちがいといったようなものである。もちろん材質のうえでは金属は硬くて冷たいが、木材は暖かくて軟らかいといった物理的な相違はあるにしても、それとは別に、この輪郭線の与える感じ方の差は大きい。石も材質からいえば硬くて冷たいが、輪郭線がぼけているから、金属よりもずっとソフトに感ずるのである。 宮大工の西岡常一氏は法隆寺の円柱を削るとき、台カンナ(現在使われている鉋)では硬い線になるのでヤリガンナ(古代の鉋、上の写真)を使ったという。しかも新しい鋼ではなく、飛鳥時代の古釘から鍛え直した刃物を使ったそうである。これはまさにヒノキの木肌にソフトな鉛筆の線の軟らかさを求めたものであろう。ヤリガンナでは刃物のあたり具合が、そのまま手に伝わって来るから、木は彫刻のノミを使ったときとおなじように、繊維に沿って削り出して行くことができる。ところが台カンナでは木と手との間に台が入るから、材質が直接手にひびいて来ない。だから仕上げ面は平滑だが繊維が途中で切られていて木の味は生きて来ない。さらに機械カンナになるともはや切削抵抗は機械が受けるから、相手は木であっても金であってもいっこうに関係ない。ただ目盛に刻まれたとおりに正確に厚さを減らして行くだけになってしまう。つまりヤリガンナを使うということは、木にノミあとを残して大きな彫刻を刻んで行くのとおなじやり方だということである。
 木と金の違いをもっとはっきり感じさせる話を書こう。奈良薬師寺の東塔は白鳳の美を伝える有名な遺構だが、薬師寺の再建に当たった西岡棟梁の話によると、構造部材を精密に測ってみたところ、柱も梁も垂木も一本として同じ寸法のものはない。屋根を支える斗棋(柱の上の組物)のうちの斗についていえば、大きいものと小さいものとでは、幅が三センチも違うという。
 斗の大きさで三センチも違いがあるということは、ふつうにいえばばらばらという表現が当たっている。それを組んであの美しい形を造り、千二百年の風雪に耐え、地震にも倒れなかったというのは、不思議というほかはない。法隆寺も事情は同様で、用材の大きさはばらばらだという。
 考えてみるとそれは当然だろう。丸太をクサビで割り、チョウナ(ページ写真)とヤリガンナで仕上げたのだから、寸法は同じではないし、多少曲がったものも入っていたのである。飛鳥の工人たちはそういうばらばらの材料を使わざるを得なかったから、それなりの技術を身につけていたのであろう。
 木の特性の一つは、同じものが二つないということである。人柄が違うように木柄が違う。それを組み合わせるところに木工技術のコツがあるわけだが、その同じでないところが面白く、柔らかな味があって、生き物といった親しさがある。全部が同じ寸法で、全く同じ材質のものでできていると、精巧さには感心するが、なんとなく冷たくて親しみにくい。機械的な美しさはあるが生き物という感じはしないのである。 薬師寺は、西岡棟梁らによって、昭和五十一年に金堂の再建が完成し、五十六年にまた西塔が建ち、現在中門を建設中である。ところで金堂の建物に使ったタイワンヒノキは精巧な製材機械で挽いたから、部材の寸法は正確で寸分の違いもない。それをヤリガンナで仕上げたのであるが、できあがった建物をみると、どうも柔らかさが足りない。東塔の姿が筆で書いた墨絵の線であるとすれば、金堂は機械製図の烏口の線といった感じである。正確であるには違いないが、どこか冷たくて人間くささに欠けている。
 そこで西塔をつくるときは、次のような対策を取った。用材は機械挽きで寸法が全部そろっているので、初層の十六本の柱は、十六人の宮大工に一人で一本ずつ削らせ、個性の出た柱にして組んだ。そうしたら柔らか味が出て、美しい塔ができあがった、というのである。 西岡棟梁の話では、金堂に使ったタイワンヒノキのうち、柱材に使った丸太は直径が二・五メートルもあった。それを四つ割りにして七十センチ直径の丸柱にしたが、立木のとき南面していた部分は建物正面の南側に使い、北面していた丸太の半分は、建物の北側に使ったという。木が生えていたときの条件と同じにしたという意味である。また塔の心柱の乾燥は、あらかじめタテに立てて回しながらゆっくり乾かしたということであった。
 次は鉄筋コンクリートと木の話を書こう。再建した薬師寺金堂は、本尊の仏像を火災や地震から守るため、内陣の部分は、鉄筋コンクリートの収蔵庫にし、その周囲を木で囲んである。日本の古い建物は、軟構造で木と木のつなぎ目は柔らかく、人体の関節の役目をしている。ところが金堂は真ん中にコンクリートの収蔵庫が入り込んだため、梁を通すことができない。人間ならあばら骨が背骨につながっていないわけだから、ショックで木と鉄筋コンクリートがぶつかり合うことになれば、柔らかい木のほうがいためつけられる。木は木と組んだとき長生きする。今回は近代科学の理論に止むを得ず従ったが、木を知り木を生かした伝統の建築技法はそういうやり方はしていない。私たちは飛鳥の工人の技法から教えられるだけが精一ぱいで、いまだにそれを乗り越えてはいない、ということであった。
 棟梁の話の中でもう一つ付け加えたいのは、木を殺す兇器は鉄だということである。法隆寺には最少限の釘が使われているが、その古い釘は鍛え打ち、鍛え打ちした飛鳥の釘だから、薄い層が何十枚となく重なり合っている。たとえ表面がサビても、ひと皮めくればサビに侵されることはない。だからこそ千三百年たった今も、立派に釘の役目を果たしているのである。
 慶長の大修理で使ったカスガイは、三百七十年後の今日ではボロボロになったサビの塊である。現在の洋釘は二十年しかもたない。鉄はサビて周りの木を駄目にするから、鉄を使った建物の生命力は木に比べてはるかに短い。ヒノキだけなら千年以上もつ建物を、鉄と無理心中させるのはいかにも惜しい。それが西岡氏の信念である。
 西岡棟梁の木を生かす愛情の話をもう少し書こう。木は建物に使うとき、立っていたときの姿のままに使う気くばりが必要だということは前にも書いた。木の南側には枝が多く出ているから、調べればわかる。太い丸太から四本の柱を木取ったときは、南側の二本は建物の正面に、北側の二本は裏側に使う。薬師寺ではそのようにしてある。
 曲がった梁が必要なときは、用材の中からその形に近いものを選んで削りあげる。繊維が通って目切れがないようにとの配慮である。またアテ(木の根元の曲がったところにできる硬い部分)のある木は圧縮力のかかるところに使い、木目の素直な木は見えがかりの部分に使う。新しく再建した薬師寺の西塔では、十六本の柱のうち内側の四本柱には三百トンの荷重がかかるから、節の多い木を使い、外側の柱には百トンしかかからないから、素直な木を使った。
 またねじれた木は二つに割って反対向きに組み合わせ、力のバランスで狂いが出ないようにしてある。これらはすべて飛鳥の工人の知恵から学んだことである。
 次は塔の背が縮む話である。塔の心柱は木をタテ方向に使うから縮みはないが、囲りの建物の部分はヨコ向きの木を積み重ねたものだから、年代が経つと少しずつ縮んで、最終的には三十センチ縮むことを見込んである。つまり水煙(仏塔の九輪の上部にある火焔形の飾り)と塔の最上層の屋根との間にはいずれ一尺近い隙間ができるという意味である。この変形が塔の全体に少しずつ分散されるわけだから、どこかのバランスが狂うと、そこに応力が集中して全体が壊れてしまうことになる。木は息をする材料だ。息をするから空気がなじみ、空気がなじむから人の肌にもなじむ。それを殺すような使い方をしてはならない。
 西岡棟梁が言いたいのは、よい建物をつくるには、理屈よりも木への愛情を優先させよということである。飛鳥の工人たちの木を生かして使った愛情が、よく千年の風雪に耐えてきた。それを改めて見直せといっているのである。
*(右)チョウナで荒削りしたのち、(左)ヤリガンナで仕上げる*1,200年前の白鳳の美を伝える奈良・薬師寺の東塔*木の組手は精密機械のようだ。こういう芸のこまかいやり方は世界に例がない

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